鰻の美味さについての60年。

夏といえばカレーである。でカレーの記憶についてnoteしようと思って書いているのだが、書くべきこと、書きたいことが多すぎてまだまだ筆三分の一にも満たない。なのでもう一方の「夏といえば」アイテム、鰻で一旦お茶を濁すことにした。

今年は土用の丑の日に、鰻屋へ行かなかった。考えたら数十年、多少日付はずれても夏の土用丑近辺に鰻屋を訪れていたと思う。しかし今年はコロナ禍、忙しさ、家計緊縮の必要などが重なり見送った。
すでに丑の日から2週間が経過したが、今年はスーパーで買ってきた鰻を家で食べることにした。鰻ざくや鰻巻きはないが、肝焼きと肝吸い(レトルトの肝とフリーズドライの出汁、一袋一人前で結構な値段)付き。ただもちろん白焼きは望めない。そう決めてスーパーで物色しているうち、2800円の九州産蒲焼と700円の「超お買得」中国産蒲焼を食べ比べてみようと思いついた。
温め方は、ネットを検索して『ためしてガッテン』流を採用することに。この「ガッテン流」、関東風と関西流があった。悩んだ末に中国産はふっくら仕上げる関東流、九州産はパリッと仕上げる関西流で試みた。九州産はもちろん本命、鰻丼に。中国産は食べ比べ用、皿盛りにした。
さてまず家人の反応である。圧倒的に九州産が美味いと言う。中国産は一口食べて、あなた全部食べていいよと言う。で僕はというと、確かに九州産が美味い、しかし「ウナギ感」のようなものは、中国産の方に強く感じてしまった。
考えてみれば、今まで高い鰻と安い鰻を同時に食べ比べたことなどない。美味い不味いを別として鰻を食べて悲しくなったのは、吉野家で一度だけ鰻丼を注文したときくらいだろう。あとはいつだって鰻を食べれば幸せになれた。
子どものころ鰻を食べるといえば、町に一軒だけあった料亭兼仕出し屋「魚一」の鰻重だった。一年に一回くらいは誰か特別なお客さんが来たときなど一緒に注文してもらい、ありつけたように記憶する。また父が「夏だ、うなぎだ、新妻だ!」というコピーを思いつき県道脇にその捨て看板が並んだ、隣町所沢の鰻屋「新妻」に連れて行ってもらった記憶も残っている。一方川越には「いちのや」という老舗鰻屋があった。高校のころ、何度か家族で行った(母は鰻が大好きだった)。
大学に入ると、神田駅近くの「登亭」で当時800円くらいだったろうか、格安鰻丼を2週間に1回は食べるようになった。「チョーマエ一杯!」だったか、一番安い鰻丼を表現する符丁があったはずだが、ちゃんと思い出せない。実はこの「登亭」、書くことが数多くある。
中学から都内の私立に入学した僕のクラスでの一つ後の出席番号が田中くんだった。親密に話しかけてくる彼とはすぐ仲良くなり、彼のお父さんは登亭という会社をやっていといると聞いた。「ウナギ屋、台湾ウナギ輸入して出してる」と彼は言っていた。僕はふーんという感じだったのだが、そんな話しをある日父にすると「あの100円ウナギの登亭か!」と言った。「へー、有名なんだ」と思った僕だが、高校生になって映画を見歩くようになると新宿、新橋、銀座、日本橋、神田など様々なところで「登亭」の黄色い看板を目にしていた。当時まだ少なかった「吉野家」とタメを張る勢いだったかもしれない。
田中くんのお父さんはもともと千住の川魚問屋の跡取りだったが、戦後鰻の大衆化を図り、流通革命や調理革命を通じて100円鰻丼を売り出し、一時代を築いた人であった。そんな田中くん家の店の鰻を、20代の前半は2週に一度は食べた。中学に入学したころ、70年代初頭に台湾産だったものは、もう80年代を迎えるころである、中国産になっていたかもしれない。さらに20代後半で入ったデザイン会社は、仕事が増えてクライアントの出版社そばの東銀座に移転したばかりだったが、そのビルの隣には登亭のちょっとした高級ライン「登三松」があった。会社のおじさんたちは、まだ明るいうちからそこでデザイン論を闘わせていた(クダを巻いていた)。
仕事をしていた東銀座の出版社では、夕方出勤して打ち合わせを終え、どこかで夕飯を食って仕事にとりかかるのが日常。その夕食、週のうち3日は歌舞伎座隣の小さな日本料理店「さつまや」、銀座1丁目の公園脇のとんかつ屋「かつ銀」、そして東銀座である、当然「ナイル」でムルギランチ、ということでほぼ定着していた。あとの2日の夕食、なにを食うかに僕らは(いや僕は)仕事以上に頭を悩ませていたかもしれない。頻度が高かったのは、歌舞伎座脇の手打ち蕎麦店、川(実際は暗渠になった川の上を走る高速)を渡った先にあるビルの地下飲食街のステーキ店、知る人ぞ知るシチューの名店の暖簾分けの店、新富町の民家風洋食店、あるいはジョン・レノンも通ったという喫茶店の下にあったやはりステーキのチェーンあたりだろうか。そして今日は「登三松」行こうか、も半ば合言葉になっていた。
ときには脚を伸ばして築地にある鰻屋に行くこともあった。築地といっても市場の方ではなく、本願寺に向かう途中の路地にあるバラックのような鰻屋。ほとんど外に開かれたカウンターに座ると串刺しされてすでに蒸し上げられた鰻が山盛りになっている。注文するとそこから一串、二串と取り炭火に乗せ焼いてくれた(当時も見つけづらい場所にあったが、何年か経ってあの店はまだあるだろうかと探したことがある。見つからなかった。あの辺りは空襲を免れたため、戦前からの東京の雰囲気と戦後の東京の雰囲気が同居して独特の路地裏感があったが、今はもうすっかり変わってしまった)。
もちろんそのころもデートや特別なときに、老舗の高い鰻を食べに行ったことはあるかも知れないが、その味はあまり記憶にない。京都や大阪、あるいは横浜などでも名店といわれる鰻屋を訪れたが、記憶に残るのはその名店、老舗としての空気感のみだ。新幹線の鰻弁当や浜名湖サービスエリアの鰻重も普通に美味かった。普通に鰻が好きだった。…そんなわけで、僕の20代のウナギライフはほとんどリーズナブルな鰻とともにあった。
高い鰻が普通になるのは、自分で会社を始めた30代半ばからだろう。土用の丑の日近辺になると、神田、日本橋、銀座、神楽坂、飯倉と(ときにはスタッフ全員引き連れて)老舗や有名店を訪ねるのが恒例になった。しかし本当に「美味いなあ」と感じながら鰻を食べたのは、やはり「いちのや」くらいだろうか。一時期渋谷の神泉にも店を出していたが、それより父が亡くなり、一人になった母と共に川越の本店を訪ねたのが僕の「いちのや」最後の記憶である。
十年以上前になるが、浅草の川沿いの老舗で予約限定の国産天然鰻の蒲焼を食べた。確かに美味かったが、僕の輸入鰻で育てられた舌はどこかで、まるで脂ののった鯖のようだな…これは鰻じゃない、とも感じていた。
鰻好きと言っても食べるのは年に数回になった。最近は夏の土用の一回だけということも多い。まして高い鰻と安い鰻を同時に食べ比べたことなど60年以上の人生で一度としてなかった。年齢を重ね、経済的余裕もかつてほどなくなりすでに10年以上。日暮里に住んでいたころ夏の土用と言えば、千駄木の「稲毛屋」が定番になっていた。引っ越してここ何年かは蒲田の「すずき」に定着しかけていた。どちらも老舗ではあるが「美味い」と感じさせてくれる庶民的な店だ。しかし、それも今年はパスすることになった。そして冒頭に記したように、昨晩家で人生初めての経験をした。
そして鰻好きの僕が感じたのは、「鰻の美味さ」ってなんなんだろう、ということだった。

追記
ともに「特大」と表記された国産と輸入の鰻は、最近のわが家では二人でも一度に食べきれない。結果翌日になって、一定の結論らしきものにはたどり着いた。
「鰻の蒲焼は、冷めても美味い」。




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