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新聞を止める

8月末で新聞の購読を中止した。

一人暮らしを始めたのが2012年の3月、新聞を取り始めたのがその年の8月くらいだったと記憶しているから、都合丸6年は購読していた計算になる。

もともと実家では新聞を購読しており、「新聞が来ない生活というのもなんとなく寂しいし、社会人たるもの新聞くらい読んでおかないとな」と思ったのが、購読に至ったきっかけだった。そう、「社会人たるもの新聞くらい読んでおかないと」。当時の私はある意味で従順だったのだ。
就職活動1年目ではすべての企業に入社を拒まれ、2年目にしてやっと手にした「社会人」(=勤め人)の肩書き。きっと私はそれが嬉しくて、一生懸命それにふさわしくなろうとしたのだろう。

それから引っ越しをし、転職をしても新聞は取り続けていた。
だが、すでに2013年頃から、ざっと目を通すだけでじっくりと読む時間は取れず、購読料を支払って新聞紙の山を築き上げるということを続けている状態だった。そしてその事実は、私の心の中において、常に鉛のように重く暗い存在となっていた。
「社会人は新聞を読まなくてはいけないのに、自分はそれができていない。でも止めるのが怖いから、取り続ける。毎月、お金を新聞屋さんに寄付しているようなものだ」という、精神的・金銭的な圧迫感が常にあった(さすがに「毎月、お金をドブに捨てているようなものだ」と書くのは憚られた)。

増え続ける新聞紙の山と減り続けるお金。もう限界だった。
だから私は、新聞を止めることにした。

朝日新聞・日経新聞・日経MJ、そして一時は東京新聞と、複数の新聞を購読していた私。新聞屋さんからしてみれば、「おいしい客」だったろう。購読の中止を申し入れた際には、なんとか継続してほしそうな様子が伝わってきた。だが、私の決意は揺るがず。

そんなわけで、今朝から新聞が来なくなった。

もはや「社会人」失格かもしれない。職業柄、経済に関するニュースには敏感でなくてはいけないはずなのだが、そういう意味ではなおさら失格だ。たまに、テレビのニュースを観たり、会社で購読している各新聞を手に取るくらいがせいぜいだろう。

でもそれでいい。新聞紙の山にお金を払い続けるのはもうごめんだ。
これで仕事に支障が出るようなら、そもそもその仕事が向いていないということなのだから、また新しい仕事を探せばいいだろう。

こんなふうにして、なんとかバランスを保って生きている30歳もいる。新学期が憂鬱な子どもたちも、少しでも気楽に生きる道を見つけられれば、と思う次第だ。


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