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過去の自分と向き合いたい(※重い話ではありません)

思わぬ形で「過去の自分」と再会すると、ドキッとする。
かつてならそれは、「思いを書き綴っていた日記帳が、荷物を整理したら出てきて…」というパターンが王道だっただろう。

現代では、「過去の自分」はインターネットの奥底に潜んでいる。
かつてブログやSNSで書き綴ったことが、(今もそのサービスが運営されていれば)瞬時に立ち現れる。この点、本質的には日記帳を見つけるのと変わらない。

さて、実は私も昨日、そんな体験をした。
私は1988年生まれなので、同世代の方にはおわかりいただけると思うが、高校生の終わり頃からの何年かは、「mixi」というSNSサービスの全盛期だった。
顔見知りの友人とお互いにフォローし合い、投稿した日記を読んでもらう。読んだ友人は「イイネ!」を付けたり、コメントを残したりする。
なんとなく、顔見知りの人とのやりとりが基本だったことを除けば、このnoteを含む現在の様々なサービスと似たようなものだ。

ふと思い立って(余談だが、私は「ふと思い立つ」ことが多い)、久しぶりにログインしてみようと思った。
奇跡的に、ログインIDとパスワードは覚えていた。

かつての私は、高校3年生だった2006年12月から、大学3年生となった2009年12月まで、足掛け3年に渡りmixiに投稿していたようだ。
自分で言うのもなんだが、これがまたなかなか面白い。哲学専攻の学生として熱心に勉強していた頃のことが中心なので、講義や演習のことが素直な言葉で綴ってあったりするのだ。読み返していると、当時の記憶が鮮明に蘇ってくる。

そんなわけで、それらの中から再掲しても大丈夫そうなものを、「過去日記」的なオマケコンテンツとして公開していくのも面白いかも、と思った次第だ。

ちなみに、記念すべき初投稿は、以下の通りだ。

「わたし、きれい?」
2006年12月09日18:22

この世には口裂け女の伝説というものがある。
マスクをした女が「わたし、きれい?」と聞いてきて「きれいじゃない」と答えると女に食われ、「きれい」と答えると無理矢理女と結婚させられる。かといって「ふつう」と答えると、「あんたって女のほめ方も知らないクズ男ね!」と罵倒される、というあれである。
だが、この伝説は実は、他人とコミュニケーションをとるのが苦手な人とどうつき合えばよいかを暗示しているように私は思う。
なぜかって?それはマスクをした女というのはマスクをすることで他人から自分の表情を隠してしまうような恥ずかしがり屋を表し、「きれい」と言っても「きれいじゃない」と言っても、また「ふつう」と言ってもこちらがひどい目に遭うということは、本当は女はマスクを取った自分の素顔を人に見てもらい、その上で評価をしてもらいたいと思っていることを表していると考えられるからだ。だから、女には「マスクを取った君の素顔が見てみたいな」と言うのが正解なのである。
以上のように、人とコミュニケーションをとるのが苦手な人間と接する時は、その人の言うままを鵜呑みにするのではなく、その奥にある本心を汲み取って話をしてあげなければならない…という、よい人間関係を築くために非常に大切なポイントをこの伝説は示しているのである。
まぁ、そもそもの始まりがウソである以上、上の仮説は成り立たないんだけどね(笑)本当は「ふつう」と答えれば助かるんだっけ??

いったいなぜ、高校生の私が口裂け女のことを書こうと思ったのかについては、まったくわからない…笑
が、「人とのコミュニケーション」という、今でも模索し続けていることについて、既にその萌芽が見られるのが興味深い。ちょうど、昨日の投稿もコミュニケーションに関することだった。干支が一周する間、同じことを考え続けてきたわけである。

「過去の自分」と向き合うことは、自分の中で変わったこと/変わらないことを見定められて、面白い。

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