すずらんだった

きのう見たすずらんを見に行きたいがだるいので横になり、「なるほどさん」の話のを聞いた。きのうを聞いた。

自動車がいっぱいの道路に沿った歩道の幅狭の植えこみ、下を見たら葉っぱがいっぱいだった。呼んでくれたのか?
すずらんの葉っぱだろうか?とまず思った。いやいや、そんないいことがあるかと、自分にとってのうれしいことが無造作に転がってるわけないと、ごく当たり前に否定した。振り返ってショック。この少し前別のところでそれらしいものを見かけて、違うよねと通りすぎていたことが頭の隅にあった。
今度は葉っぱがわんわん密生して訴えてきた、よく見た。
ひっそり白い鈴たちがふるふるしているではないか! 数年前、一度は手にして失ったすずらんが、カンカン日の当たる排気ガスの中で元気に一群を成している。おお! 屈んで眺めた。

もう一度与えられた、という気がした。

さて、歩き出したら前方から鳥人間が。顔が梟でからだが人の形が歩いてくる。鳥人間はグレーのマスクをして眼鏡をかけた、黒い髪の人と連れ立っていた。連れはただの人のようだった。距離あるからと言い訳してガン見すると、白っぽい金髪の中に濃い色のラインが顔の両側に入っているのがわかった。髪色と近い色のウレタンマスクで目以外の顔が覆われていた。マスクがふくろうの嘴に見えて、近づいても見えた。

なるほどさんの話を聞くうちにきのうのすずらんを思っていた。「所有」ということばが質問者から幾つか出ていた。すずらんを欲しいと思っている。一度手に入ったけれども、消えた。すずらんが欲しい。きのうの思いをたどって「欲しい」をほぐしてみたら、欲しいのは、腹ばいになってよく見たいからだった。しかし「所有」できたとして、うちの草ぼうぼうの猫の額で好奇の目を気にしながら腹ばいになる気力はない。
「腹ばいになってすずらんの高さで見たい」
「できないでしょ、こんな街中で」
きのうは即却下だったけど、さっきはそうならなくて、思ったときには原っぱで腹ばいになってすずらんを見るになっていて、流れるようにすずらんになりたいと思ったらすずらんだった。真上の青空は見上げても眩しくない。ふるふる揺れるわたしはすずらんの一株で群生でもあった。
「分かれていない」となるほどさんが言っているのを聞いたばっかりだから、すいーっと「分かれていない」状態になったのかなー。
涙があふれてきて、人間のことに考えが及んだ。すずらんの状態で人間と関われば楽なのでは?という思惑。なんだか不快になったので、すずらんに戻った。動画が終わるまで目を閉じてすずらんでいた。


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