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わたしの場所に母がいる

1990年9月8日
温かい寝床をちょっと離れて戻ろうとしたとき、母に呼び止められた。
そこへ戻らないでほしいという。
なるほと、〈そこ〉は母の場所らしい。
母がわたしの場所にいるので、わたしは《そこ》には行きたくなかった。
あなたがいるところは嫌です、と率直なことばは避けて、「寒いのです。寒いから嫌です」と言った。
いま元のところへ戻れば、まだ自分の体温の温かみが期待できた。

1990年11月5日
早く人間になりたいよ~!

⚀子どもがどう感じたか
1993年4月
「お母さんに悲しい目に合わされたって言ったって、それは、あなたがそう思っただけでしょ。お母さんはそうじゃないかもしれない」
「そうじゃない。子どもがどう感じたかが問題なんです」

1993年6月
生きてゆこう廃人にならないよう気をつけながら生きてゆこう大変だけどそれはあたりまえ生きなければもったいない

小さないいことが毎日1つはあるでしょ。

この世から消えたい
あの世にいきたくない
細胞の1つ1つがぱらぱらとはずれて空のほうへぱらぱらと飛んじゃってしまいにゃ消えてしまえばいい
そうやってこの世から消えてなくなりたい

夕涼みの図 久隅守景

⚁知らんぷりすることにして
1993年10月
歩いていました、左前なのを気にしながら。
なれてやわらかな布は薄汚いような色。
合わせだけでも、よっぽど直そうかと思ったけれど、知らんぷりすることにして歩きました。

⚂目が魚眼レンズになっていた
1993年11月
目が魚眼レンズになっていた。
横も前も上も下もぐるーっと見えてしまう。距離がつかめない。みんないつもより遠くにあるように見えてしまう。
頭がぐらぐらして、立っていることが困難だ。このままでは頭をごつんとぶつけるように倒れてしまうことだろう。恐い。頭が割れるのが見えるようだ。
つかまれる金属の枠のようなものが近くの出入り口にある。なんとかこれにつかまろう。近いはずなのに手が届かないように見える。目は頼れない。記憶を活用して。
やっと枠をつかまえた。
寝てしまうのがいちばん楽なのだが、絨毯が汚いので、ぐらぐらする頭を支えて我慢。

1994年
1月 自然治癒力に頼ろうと考えた。
4月 まだ小学生のいとこと生活したことが契機となり、抑圧されていたものたちが騒がしく動きはじめた。
5月 自己免疫疾患発症(9年通院)
9月 生まれてはじめて秋刀魚をさばいた。感じたことのない厳粛な気持ち。身にしむ味。
11月 弟破綻。どこぞへ。

1995年
1月 神戸・淡路(阪神)大地震
3月 オウム
⚡いかづちが直撃したかのようだった。
彼らを嗤っていた自分がとんなに浅はかだったかを思い知らされた。
次いで、「凍りついている自分」に気がついた。
心をあたたかくするものを集めなければ❗
警報が鳴り響いた。
「心をあたたかくするもの」集めはつづく。
忘れてはならない河野さん

⚃降ってきた声(音声のみの夢)
1995年4月12日
fくんは Aの 「当たり🎯」じゃない
と告げる声が降ってきた、真っ黒の中。
(起きたらすっきりしていた。)

1995年6月
唯一無二の友に、えいっ!と自分の中の差別の心を話した。生まれ変わるため。
「生まれてくれてありがとう」と言ってくれた。
まったく予想だにしなかったことばだった。

1995年10月24日
ここんとこずうっと調子が悪い。惨めだ。こんな自分のまま終わるんじゃないだろうかとか不吉なことも考えてしまう。生きる力がぜんぜん出てこない。


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