見出し画像

ささやかな楽しみ

 京都大学には、毎年入試の日になると、折田彦一先生の銅像をモチーフにした面白いオブジェがどこからともなく姿を現し、受験生を煽るという恒例のイベントがありまして、「今年の折田先生は何なのか」を密かに楽しみにするものです。というのも、この折田先生像、実は歴史はかなり古いそうで、もともとは総人前にあった折田彦一先生の銅像への落書きに留まったものであったが、見かねた当局が元の銅像を撤去してしまったが、かえって事態はエスカレートして、ついにはアニメのキャラクターに模した折田先生まで登場するといった次第で、没個人的な学生を望む当局の目論見は、かえって学生のユニークな発想を大学の外まで知らしめることになってしまった。そんな折田先生像が「崖の上のポニョ」になっていた年がありました。毎年どんなキャラクターにするのか、そんなことはてっきり製作者の気分で決めているのだろうと思っていたのですが、もうどこで読んだかは忘れてしまいましたが、いや、実はあのポニョの像には次のような意味が込められているのだ、という説明を見たことがあります。すなわち、立て看板が市の「条例」に反するということで、突如として大学からタテカンが一掃され、また昨今の高等教育を蝕んでいる「選択と集中」、「実学の重視」など、愚かな流行、我が京都大学もついにその愚行に手を染めるに至り、ますます「自由な学風」が失われていく近年の京大はまさしく「崖っぷち」の状況である、今年の折田先生はそういうメッセージを伝えているのである、と。そのときは率直に感心したのを覚えています。あの像を作った人が、そのように考えてあの像をこしらえたかどうかは分かりません。けれども、そんなことはどうでもよくて、むしろ一見くだらないと思える行為から、自由な発想が生まれる瞬間を垣間見たような気がして、これこそがタテカンの存在意義だと強く実感したものです。やはり、自由な発想というのは、綺麗で、秩序があって、均一な場所では決して生まれない。だから、中央集権の「管理」や「秩序」とは、本質的に相容れないことは、確かにその通りです。世間でいうところの、「学びやすい環境」というのは、大概、綺麗でガラス張りの校舎、同じような髪型、同じような服を纏った学生、代替可能そうな没個性的な教員たち、けれども本当のところ「学びやすい環境」というのは、その逆で、いろんなモノが散らかっていて、いろんな人間がいて、そういった場所に囲まれて、こういうくだらないことを頭で考え続けるということではないのか。
 「崖の上のポニョ」の折田先生像が出現した年は、ちょうど入試の日の前日に、ロシアがウクライナを侵攻し始めた年でもありました。今から思うと、やはり象徴的な日であったと思うし、当時はアメリカがどう出るのか、それによっては人類がまた世界大戦に突入していくかもしれない、世界がまさに「崖っぷち」の状況でもありました。

画像出典:https://mainichi.jp/articles/20220225/k00/00m/040/245000c


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?