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話し方の変化を成長とみなせる?

人には身体的な成長、もう1つは精神的な成長の2つがある。
身体的な成長は身長や体重と言った視覚的に変化を感じ取りやすい。
一方で精神的な成長と言うのはパッと見で分かることは少なく、相手のテリトリーに踏み込んで観察をしないと見えてこない。

今回のテーマは長男の話し方について。

保育園の友達の影響で仮面ライダーや戦隊モノを見るようになってからというもの、長男の話し方が明確に変化した。
例えば「あんた」と言う言葉を使うようになったり、違和感のある標準語の語尾を使うようになったりと挙げれば切りがないほど。
明らかに仮面ライダーや戦隊モノの誰かを模倣していた。

これらの番組の対象年齢は幾つか?
関連玩具のパッケージを見ると3歳以上をターゲットにしている事が読み取れる。
つまり、長男は番組側からするとターゲットに入っている訳だ。
番組の登場人物はいないいないばあや、おかあさんといっしょのお兄さん、お姉さんとは明らかに話し方が異なり、よりラフに暴力的な表現を伴った発言をする。
仮面ライダー等に憧れているキッズは心を掴まれ、話し方を憧れの存在に似せようとするのは理解出来る事態だ。
僕も小さい時に北斗の拳のケンシロウを真似ていた気がするので、これは仕方の無いことだと思う。

とは言え、頭の中では理解していても子供が年齢不相応の発言や話し方をすると違和感を覚えるものだ。
この話し方の変化は妻を悪い意味で刺激してしまい、長男との間で衝突が絶えなくなってきた。
僕は同性で小さい時に似た経験をしたので幾分長男の肩を持ちがち。
でも、その経験がない妻からすると長男の発言は許容の範囲を振り切れてしまうわけだ。
子供が娘だったならば逆の事態になっていたかもしれない。
そう思うと妻の反応を否定する事は出来ない。
その為、僕は妻に寄り添いつつも中立な立場でこの件を応対している。

話し方というのは大変に厄介な代物だ。
相手の呼び方一つをとっても色んなパターンがある。
貴方、貴殿、あんた、お前様、お兄さん、おい、それが相手に与える印象の違いをもたらす。
英語の様に相手を指す言葉が「you」で完結したらどれだけ楽だったか。
こんな時は日本語の煩わしさが目立ってしまう。
故に話し方を誤ってはならないという考えが強くなる。
結果としてラフな話し方を耳にすると是正したい気持ちが働くのだろう。

長男によってもたらされた話し方の問題をずっと考えているが、結論を導けていない。
仮面ライダーの登場人物、例えば青年が使っても許されるならば何故幼児は使ってはいけないのだろう?
その線引きは?
考え始めると何が正解なのか分からなくなってくる。
よくよく考えたら絵本の登場人物だって皆がみんな丁寧な話し言葉を使う訳では無い。
つまり、至る所から色んな言葉に触れるわけで、それを受けてどう言った話し方を選択して学ぶかを親はコントロールすることは出来ない。

長男に何度も説明し、時には厳しく諭してもその場では分かったと言いつつ次の日にはまた繰り返す。
或る意味、反抗期みたいなものだろうか。
親が何を言っても変わらない。
結局、そういった話し方を続けることで自分にどのように跳ね返ってくるかを経験しないと変わっていかないのだろう。
先日、保育園の帰りに女の子の友達に「おい!」と読んでいたらしい。
そんな呼び方を好意的に捉える人は極小数であることを身をもって知るのは近いと思う。

こうして親が何を言っても聞かない場面に直面すると、親というのは実に無力なものだと実感する。
それは子供が親の手から離れ自己選択を始めた証でもある。
好意的に捉えるべきか否か。
実に、実に難しい。
少なくとも今の僕達夫婦は長男の現状を否定的な目で見てしまう。
ここで関係がこじれれば溝は深まるばかり。
親が寄り添うべきなのだろう。
でもそこへどうやって向かえば良いのか。
僕一人ならば同性の長男に寄り添うのは差程難しくはない。
ところが妻は違う。
妻が納得することは難しいだろう。
とりあえず今僕が出来るのは、好きではないが時が解決するのを待つことなのかもしれない。
つまり辛抱だ。
辛抱の語源と言われる心法は心を修練するという意味らしい。
成程、今の我が家の状況にピッタリの言葉だ。

躾けるから見守るへの変化。
それは親にとっても試練であり、乗り越えるべき壁。
傷だらけになっても何とか乗り越えて皆で振り替えれるよう、今は心を折らずに頑張ってみよう。


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