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(コラム9) あの日「3/11」が近づくにつれ、当時には感じることがなかった焦燥感、虚脱感に襲われる。

2023年(令和5年)3月11日 12年経過した東日本大震災
過去のblog記事で、「東日本大震災」で泣くなった方たちを偲ぶ
 
 あの日、私の育った都市は被災した。
 聞き慣れた地名の被害状態が伝えられ、試合で訪れた学校の凄惨な状態が映しだされる。
 40歳を過ぎ、もう一つの会社を育った都市に設立し、1年の1/3~1/4をその地で過ごした。
 かかわってきた人たち、企業の多くが被災した。
 4年前、経営から退き、経営コンサルタントとして企業経営に携わることからもいっさい身をひいた。
 再び、DV/性暴力被害者の方々へのサポートに携わり2年、いつもと代わらず、仕事場で、電話でのカウンセリングに応じ、ブログのチェックを終え、レポートを作成していたときだった。
 突然、2度の震度5強の大きな揺れを感じた。
 そして、余震を感じながら大津波警報の沿岸地到達時刻のテロップを見つめる中、目に飛び込んできたのがあの日の惨状の映像だった。
 そしてあの日、「3/11」が近づくにつれ、被災地の人々の生き様にフォーカスされたドラマや特番が組まれ、日々、当時の映像が流される。
 私は、当時には感じなかったまったく別の種類の焦燥感、虚脱感に襲われるのを感じるようになった。
 
 人は皆、わが身がかわいい。
 だから、自分に対して甘くなりやすい。
 やがて、しんどいことは他人に押しつけたくなる。
 人は辛いことが重なると心を傷つけられ、もう自分の心を見たくないと思っていく。そして、心に蓋をしてしまう。
 人が心を閉ざして生きていくほど、悲惨なことはない。
 まして、いたたまれない思いから苛立ち、「腹が立った」を繰り返していると、心の中に鬼を生み、地獄の心をひき寄せる。
 地獄の心を剥きだすと、側にいる大切な人も地獄にひき込んでいく。
 己の「分(性質、人柄)」を知っていると、心の地獄に陥らない。
 心を穏やかに保てれば、側にいる大切な人の心を地獄から救いだせる。
 『頑張ろう!〇〇』というキャッチフレーズの名の下、自分の“身の丈”から外れたことを行って、地獄にさ迷い込んでしまわないで欲しいと思う。
 「足るを知る(知足)」、できること、できないことの区別が見極められないと地獄に引き込まれてしまいかねない。
 身の丈から外れたことを背負い込まない。
 そのことを心に刻んでおいて欲しい。
 あの日以降、手元に届けられる義援物資に「応援しています。頑張ってください」と手紙が添えられている。
 多くの被災者は、人の温かさが身に沁み、ありがたさに涙した。
 しかし、月日が経つにつれ、思うようにいかない人たちにとっては、日々の生活にその「応援しています。頑張ってください」との激励が重荷になってくる。
 「頑張れ!」という激励に押しつぶされそうになる。
 「支えられている」という思いに、必死に期待に応えなくてはならない。
 頑張れない人は、弱い人、ダメな人と烙印を押される恐怖感につきまとわれる。
 「復興を急げ!」は、被災し傷ついた人たちに重くのしかかってくる。
 復興のために「頑張らなくちゃ」「期待に応えなくちゃ」と自分自身にいいきかせ、頑張り続けなくてはいけないと、逃げ場を失って、自分自身を追い詰めてしまう。
 そうした人たちがこれから増えていくだろう。
 身の丈以上に頑張らせようとしかねないメッセージを含む「頑張ってください」が、次なる悲劇を生みださないように願ってやまない。
 あの日のあなたを「許せない」被災者の方も少なくないと思う。
 「自分がああしていれば、(近しい大切な人を)死なせずにすんだかも知れない」、「自分だけが生き残ってしまった」、「私より生きるに値する人が亡くなった」と、あの日「自分があのとき~していれば」となにもできなかった無力感と罪悪感に苛まれ続けてはいけない。
 あの日の「許せない」思いに囚われ、心を縛り、身動きできなくなっているなら、あなたを「許し」て、もう自分を責め続けるのを“終わり”にして欲しい。
 日本では例年110万人、約20秒に1人が亡くなっている。
 その人たちの人生を背負い込んで生きなくてはならないなどと思う状況は、めったに訪れない。
 2011.3.11の大震災、その後の余震を含め亡くなった方たちの人生を、生き残った罪悪感として、“特別な使命”として背負うことを課す必要はない。
 なぜなら、「亡くなった人の分も頑張って生きなければならない」という“格好のいい”“響きのいい”キャッチフレーズは、震災で傷き、嘆く人たちを“弱い人間”とレッテルを貼り、口を封印し、戦犯者を扱うがごとく葬り去ってしまいかねないからである。
 戦後、戦地から帰還した人たちが、復興の名の下で、「亡くなった人の分も頑張って生きなければならない」と頑張り続け、世界が驚嘆した経済復興をなしえたものは、物の豊かさに反して心の豊かさからかけ離れたものに他ならない。
 確かに戦後の復興、高度成長のエンジンになったかも知れないが、働き詰めで頑張り続けてつくりあげた社会コミュニティは崩壊し、世界に類をみない自殺数を誇るといった社会病理を生みだした。
 亡くなった人たちの人生を背負って生きることは、親の期待する人生を生きさせられる「親にとって都合のいい子(ACとして生き難いを抱える)」と同じ道を辿りかねない。
 重い十字架を長い間背負い続けながらの人生は、どこかで息切れし、疲れ果て、人生を立て直せないまま疲弊してしまう。
 たとえ息切れしても、「ここで、負けてはいけない」「投げだすのは恥」と頑張ることを、諦めないことが“美学”と自分自身に強いてしまう。
 周りのキャッチフレーズ、キャンペーンに強要された、思い込まされたものを、あなたのエンジンにしてはいけない。
 復興に尽力している人たちの映像の中に、既にその痛々しさを垣間見てしまうのは私だけだろうか?
 復興という“使命感”という名の下、自分の苦しい、やるせない、頑張りきれないという自分の弱さから目を背け、心の奥にしまい込み、自分自身に嘘をつき、心を偽り、頑張り続けるストレスは、やがてあなたに重くのしかかる。
 ひとりの“わたし”を一生懸命に「生きる」ことと、亡くなった方の人生を“背負って”必死に「生きなければならない」ことはまったく違うと、私は思う。
 震災後、被災した人たちが助け合う、わかち合う、思いやる姿に人とのつながりが見直され、家族の絆、友人との絆ということばがシンボル、象徴として使われている。
 しかし、地域復興とは経済復興を意味することから、見直されたものは置いておかれ、これまでと同じ社会観を前提としてしか考えていない。
 「箱モノ」という概観だけ復興を果たした神戸の幾つかの地区は、コミュニティとしての人のつながり、かかわりを崩壊させてしまった。
 復興の名の下の強力なエンジンの裏に隠れ、つくりだされてしまった社会病理が垣間見れる。
 格好のいいキャンペーンを“正義とする”ことで、「くさいものには蓋をする」がごとく闇に葬ってはいけない。
 2割の頑張った被災者の復興支援からのアプローチだけでなく、8割の頑張りきれなかった被災者にとっての復興とはなんなのか、なにを必要としたのかにもフォーカスし、声をひきあげて、耳を傾けて欲しいと願ってやまない。
 被災地以外の路上インタビューで「人とのつながり、思いやりとか日本人が失ってきたものを考える機会になった」と応える人たちの厚顔無恥さは甚だしい。
 近しい人たちの命を奪われた被災地の方のことを思えば、口にできないことを思いやりのかけらもなく話している。
 多くの人たちは、そのことに気づいていない。
 
 「はかなさ」といういうことばがある。
 実は、生きて死ぬことを意味する。
 「はかない」からこそ命なのである。
 人は生きて、死ぬから人生があるのであり、「生きる」とは“辛き別れ”を重ねつつ、重き思いに耐えていくことでもある。
 「2011年3月11日」は、まさにその事実を私たちにつきつけた。
 嫌なこと、苦しいことから目を逸らしていると、いいこと、楽しいこともまっすぐに向き合えなくなってしまう。
 やがて、目を逸らす癖がついてしまい、知らず知らずに自分の心とまっすぐに向き合うことができなくなる。
 人は、自分の心のありようでしか世界を見ることができない。
 心の中が殺伐としていれば、そのような見方でしか周りを見ることしかはできない。
 心が豊かなら、温かく周りを見渡せる。
 あの日から私たちは、「復興を念じる」ということばをどれほど耳にしたかわからない。
 「念じる」とは、ひとときも忘れないという意である。
 そのときの思いを、気持ちを忘れない、冷まさないと確認し続けなければ、直ぐに“知行”は離れてしまう。
 知っていることを実行し移す力、エンジンが“念”である。
 その念は強過ぎたり、人に強要したりするものであってはいけない。
 その強すぎる念が、連日、テレビや新聞であの日を伝えるのだろう。
 「ひとこともらえませんか?」に対し、期待に応えようと“いい人”になってインタビューに応じさせているように感じる。国民性だからとひとことですませてはいけないと思う。
 だからといって私は、「運命だからどうしようもない」と流され、残りの人生を捨て去った死人のように生きていくことを臨んでいるわけではない。
 かつて、経営コンサルタントとして活動していたときの「私のプロフィール」には、“座右の銘”としてヒンズー教の教典のことば、『考えが変われば、態度が変わる 態度が変われば、行動が変わる 行動が変われば、習慣が変わる 習慣が変われば、運命が変わる 運命が変われば、人生が変わる』と記していた。
 運命を自らの意志で変えることを“立命”という。
 心の命を自ら断ってしまわずに、細くとも永らえて欲しいと願ってやまない。細くとも永らえようとする意志だけもっていれば、やがてほんの少し運命に囚われる十字架をそっと解き放つことができると私は信じる。
 いま、被災地から離れ生活している私にとって、その強過ぎる念を、その地で消化しきれないことがとてももどかしく、罪悪感となっている。
 それが、私の焦燥感、虚脱感の原因だと思う。
 原発問題でその地を追われた被災者の方たち、もう海はこりごりと故郷を捨てざるをえなかった被災者の方たちも、離れた土地からあの日のあの瞬間を捉えなおさなければならない。
 その思いを考えるとやるせなく、いたたまれない。
 小林一茶は、『おらが茶』の中で「露の世は 露の世ながら さりながら」と詠んでいる。
 「さりながら」とは、“そうであるものの”という意で、道理はわかっていても、教えがわかっていても「さりながら」で、哀しくて、哀しくて仕方がないということである。
 焦燥感、虚脱感に苛まれても、映しだされる被災者の人情味溢れる姿をまぶたに焼きつける。
 その瞬間、瞬間を、いまは大切にしていきたいと思う。
 被災地で懸命に生きる人たちの人情溢れる姿をまのあたりにして、ブログで何度か記載している聖徳太子の「和をもって尊しとなす」ということばを重ねた。
 「和をもって尊しとなす。さからうことなきを宗とせよ。人皆党(たむら)あり、また達(さと)れる者少し」
 人はいろいろな人々の出会いの縁によって支えられ、生かされている。
 そうした縁の重なり合い、絡み合いによって育っている。
 「和」は因と縁がプラスされ、その結果、お互いに努力して、縁を生かして縁を育てていく。
 お互いの持ち味を皆がだしていく。
 さらに、持ち味を互いが尊重していく。
 そうやって、それぞれの持ち味が十分にでたものが、結合されたひとつの味になっていく。
 「さからう」は、縁起の法則に逆らってはいけない。
 「党あり」は、自分の利益を中心として、離合集散していく。利益でくっつくと利益で離れていくという意で、このことを理解しているものは少なく、嘆かわしい..と。
 この考えを聖徳太子は、日本人の精神、思考の礎にしようと「十七条憲法」の冒頭に掲げた。
 互いが互いの立場を尊重し合い、上下の関係(奉仕)ではなく、同じ横の立場で“世話”をし合っていく。
 お互いが心を合わせ、力を合わせる「和」があり、ひとつのことを成し遂げていこうという「志」が育まれていくとした。
 ある王が、釈迦に「一番かわいい、一番大切なものは自分自身だという考えを持ちはじめている。
 いつもの教えには“他を愛するように”とある。自分がかわいいというのは間違いですね?」と尋ねた。
 釈迦は王に対して、「他を愛する! それはきれいごとではない。まず他を愛する前に、自分が一番かわいいとわかってくる。そうすると他を傷つけるということはできなくなる。他を害することはできなくなる」と説いた。
 釈迦のいう「他を愛する」は、単に他の人のために役立ってあげたいではなく、「傷つけられない、害することができない」というもので、それをできる人が自分を大切にする人である。
 そして、そういう心遣いこそを人は最も大切にしていかないといけないもので、見せかけの自分ではなく、本当の自分をつくりだす道ということを教えたのである。
 
 「ちょっと頼むわ」「よし引き受けた」と、こんな感じで人と人が結びつく。見返りを求めず、対等の立場で世話をしたり、世話をされたりするのが、人と人との結びつきの姿であると私は思う。
 世界が驚嘆し、賞賛した避難先での助け合う、わかち合い、寄り添う姿は、いまキャッチフレーズ化、象徴化されてしまった絆とは種類の異なるものだと思う。
 その“尊い行い”として、さりげなく気遣い、心遣いを大切にし、お互いさまの心で歩んでいきたい。
 
2012.3.11 14:46 あの日から1年。
なにより“わたし”を、“わたし”であるという魂(心)を大切にすることを願って、合掌。

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