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玉川神社に立ち寄ってみた(羽村市)

 羽村の阿蘇神社に行く途中にある玉川神社に立ち寄ってみた。

 阿蘇神社についてはこちら。↓ 

  玉川神社の御祭神は健御名方命と大山祇命。御神紋は梶の葉で諏訪大社と同じ。昔は諏訪宮、諏訪大明神、多摩大明神と称していた。

 創建は平安時代末期の寿永年間[1182~85]、畠山重忠の一族が、信州諏訪大社より勧請したという。

 寿永年間の頃といえば、平清盛が死に、平氏は西国に逃れ、源義仲の敗死、一の谷の合戦と、まさに源平の大戦おおいくさのクライマックスである。
 諏訪の神は、古くは神功皇后の三韓征伐、坂上田村麻呂の東夷平定に神助ありといわれた武の神。畠山氏も武士の守護神として諏訪明神を祀ったのかもしれない。

 江戸時代に火災に遭い、詳しい社史は不明という。
 明治二年[1869]に諏訪神社と改称。十五年[1882]に日枝神社(大山祇命)を合祀して玉川神社となった。

 玉川神社の現在の社殿は、昭和六十一年[1986]の諏訪大社の式年造営御柱大祭のときに、下社秋宮の東宝殿を拝戴し、移築したものだそうだ。

 明治十年[1877]境内に西多摩尋常高等小学校が建設された。
 神社入口にあった、羽村市教育委員会が立てた説明看板を引用する。

西多摩小学校発足の地
羽村の学校教育は、明治6年[1873]禅林寺・禅福寺・一峰院などを仮校舎として始まりました。
二年後に麻布高須塾から佐々蔚さっさしげる先生を迎えて校舎新築の機運が高まり、中島与一右衛門を中心に、学区取締役指田茂十郎や戸長坂本海助らの尽力によって、この諏訪の杜を校地に選定しました。
明治10年、間口八間(約15m)、奥行き四間の二階校舎が完成し、羽村と五ノ神村の生徒150人が学ぶようになりました。
翌年1月8日に西多摩学校開校式が盛大に行われ、近代教育の第一歩を踏み出しました。
その後、生徒数は増え続けて明治34年[1901]には500人に達したので、ここから天王台(現第一中学校所在地)に移されました。

羽村市教育委員会

 未完の長編小説『大菩薩峠』で知られる、作家の中里介山は羽村の出身で、西多摩小学校で学んだといい、卒業後は同小学校で代用教員もしていたという。
 中里介山は羽村の取水堰の傍の水車小屋で産まれ、禅林寺(羽東3丁目)に葬られた。玉川神社、羽村取水堰、禅林寺は半径500mほどの狭い地域である。
 生涯独身で通し、質素に暮らした人だったという。


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