漆原友紀による同名漫画を原作とするアニメ『蟲師』を視聴していると、神道や仏教、あるいは柳田國男や宮本常一といった民俗学者、なかでもとりわけ南方熊楠を想起する人は多いと思われる(実際に、漆原は漫画『蟲師』第5巻のあとがきにおいて、「南方熊楠記念館」を訪れたことに言及している。また、漫画『蟲師』第10巻「常の樹」における幹太のような登場人物からは、直接的に熊楠が想起されるだろう)。そして、熊楠の思想といえば、華厳や密教といった仏教思想との近さが指摘されている(熊楠はよく「不思議」という言葉を使うが、『華厳経』はもともと「不思議経」と呼ばれてきたそうだ)。
例えば、アニメ『蟲師 続章』第十七話「水碧む」(漫画『蟲師』第9巻)では、そんな作品の根底に流れる華厳的な思想が感じられる。
ここで、タキの台詞を仏教的に解釈してみると、「みんな同じ」とは、究極的には一切が「空」(無自性)であるということ、すなわち、華厳でいうところの「理」のことであり、「違い」(分別)のある「形」(色)とは、「事」のことを指していると考えられる。
無礙(むげ)とは、礙(さまたげ)が無いという意味で、華厳では、現象界と実体界とが一体不二の関係にある『般若心経』における「色即是空、空即是色」のことを、「理事無礙」――「理」と「事」が互いにさまたげることなく浸透し合っている――といい、哲人と呼ばれるような人は、この「理事無礙」の境位から、事物を二重に見る(「事」を見ると同時に「理」を見る)とされるのである。そして華厳では、この「理事無礙」を通じて、さらに「事事無礙」の境位に至るのだとされる(例えば空海も『般若心経秘鍵』において、「色空と言えば、則ち普賢、頤を円融の義に解き(…)色空本より不二なり、事理元より来同なり」と述べている)。
華厳では、「AはA、BはB、という同一律的事態を認めつつ、しかもその反面、それと同時に、AとBとの相互浸透を説く」のである(『コスモスとアンチコスモス』)。まさに「みんな同じ」でありながら、それぞれ「違う」のである(それはちょうど、川の水も雨の水も海の水も、すべて「水」と呼ばれる共通した同じものでありながら、厳密に完全に同じ「水」は、世界のどこにも存在しないのと相似である)。
一般に、近代化に伴って進んだ個人主義的傾向の強い現代においては、それぞれの「違い」=「差異」が、比較的肯定的に語られるようになってきた一方で、「みんな同じ」というような感覚――「つながり」と呼ばれたりもする。『蟲師』風に言えば、「妖質」であろうか (*1) ――の方は、全体主義を連想させることから、現代においては否定的に捉えられがちである。しかし、「水碧む」においてタキが、涌太が「他の子達と同じになれる」ことを望んでいたように、やはり普通でないこと(=「差異」)に対しては、不安を覚えるのが一般的な感覚であろう。過度に「差異」の部分を強調することは、無意味な分断を生むことになると言える(実際のところ、涌太はその特徴的な「差異」ゆえに、他の子達と一緒に遊ぶことができなかった (*2) )。
もっとも、過度に「みんな同じ」の部分を強調することも、同様に危険だと言える。例えばその危険性は、漫画『蟲師』第4巻「籠のなか」において描かれていた。すなわち、その回に登場した「間借り竹」という蟲が、白い竹から採れる水(!)を飲んだ者を、「お前は己の一部だ」として竹林の中に閉じ込めてしまっていたように、「みんな同じ」という考えが行き過ぎてしまうと、「差異」のない、閉じた世界になってしまうのである(したがって、いずれの場合においても行き着く先は独我論的世界であると言え、健全な共生(共棲)を目指すのであれば、その二つのバランスを取ることが肝要であろう)。
さて、『華厳経』によれば、この世界の実相は、「事事無礙」の境位に至って見られるような、無限の関係性の網、重重無尽の「縁起」の理法によって成り立っているとされ、そうした無限の関係性は、存在即時間を意味する道元の「有時」(「松も時なり、竹も時なり。(…)尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時時なり。有時によりて吾有時なり」(『正法眼蔵』))や、西田幾多郎の「永遠の今」のように、空間的にだけでなく、時間的にも成り立っているのだとされる(過去現在未来の相即相入)。
世界の実相として、目には見えないもの、手では触れることができないものが、「隠れた形で」実在しているという事実は、例えば、漫画『蟲師』第6巻「天辺の糸」における吹(=「星」)を思い返してみればよくわかるだろう(「見えなくても、ずっと空にいるんだ」)。
そして、「ただ一つのものの存在にも、全宇宙が参与する」。これこそが『華厳経』において語られる、法身仏が入ったとされる特殊な観想意識「海印三昧」の境地であり、「事事無礙」の境位に他ならない。つまり、「水碧む」に話を戻せば、例えば、涌太は涌太でありながら、実は同時にタキでもあり、雨蟲でもあり、川でもあり、谷の水でもあり、空の雲でもあり、そして、無限を象徴する海でもあるということである(もちろんその際、すべての構成要素が、平等の支配力を有しているわけではない。涌太の場合であれば、同一化していた雨蟲を含めた涌太自身の構成要素が強く顕現的であるのに対して、他の要素は隠退的であると言えるだろう)。
ちなみに、華厳ではよく「理」を水に、「事」を波に喩えられる(タキが海のことを「見渡す限り水」と言っていたように、「理」は海で喩えられることもある)。すなわち、水と波との関係が「理事無礙」であり、波と波との関係が「事事無礙」であると言われる。なお、ここでの「事事無礙」とは、等しく「理」(水)を基盤とした上での「事」(波)と「事」(波)との関係のことである。つまり、そこで見られる現象というのは、あくまで一度真理を悟った後に、返って再び見られる現象のことをいうのである。
タキは、自分の子どもである涌太の「死」をキッカケに、無限の関係性の網に気づく。涌太との会話を思い返している間のタキは、いわば「理」と「事」が溶け合った「理事無礙」的境位にあったと言えるだろう。そしてタキは、涌太の「死」を自覚した後(「あいつは生きた。確かにここに、生きていた」)、顔を上げ(=「もうこわくない」)、再び現象界へと至るのである。すなわちタキは、涌太が、どこにでもいることを実感するのである(涌太とタキとの会話が、実際に交わされたものと微妙に異なるのは、おそらくそれが、現在においてタキが想起している、過去の会話(=記憶)だからであろう (*3) )。
タキは、海のことを「見た事無い」と語っていたが、禅における悟りの表現としてよく比喩的に言われるように(「禅は『華厳』の無数の荘厳の一つ」とも言われる(『華厳の研究』))、今この瞬間において、まるで自然と融け合い、あるがままの自然――川や海や雨――の中に涌太の姿(心)を感じ取るタキには、きっと美しい海の光景が見えていたことだろう。
涌太の「死」を抱きしめたタキの「心」には、常に涌太という光(光明、無限)があると言える (*4) 。だから、そのことに気づいた彼女は、「もうこわくない」のである(「仏日の影、衆生の心水に現ずるを加と曰い、行者の心水、能く仏日を感ずるを持と名づく。行者若し能く此の理趣を観念すれば、三密相応するが故に、現身に速疾に本有の三身を顕現し証得す」(空海『即身成仏義』))。
ところで、華厳思想における「「事事無礙」という考え自体、すなわち経験的世界のありとあらゆる事物、事象が互いに滲透し合い、相即渾融するという存在論的思想そのものは」、「東西の別を越えて、世界の多くの哲学者たちの思想において中心的な役割を果してきた重要な、普遍的思想パラダイム」であるとされる(『コスモスとアンチコスモス』)。
そして、古代ギリシャ哲学においてそれは、「ヘンカイパン(一即全)」と呼ばれるものである。「一即全」。「一は全」。そう、本文のタイトルにある『鋼の錬金術師』における「一は全、全は一」の元ネタの源流にあるとも言われている思想である。
「水碧む」のラストにおいてタキに見えていた風景とは、おそらく「全ては水である」と説いたタレスの、「自然神秘主義的体験」と大きく重なるものであったのではないだろうか(「心原を悟るが故に、一大の水澄静なり。澄静の水、万象を影落し、一心の仏、諸法を鑒知す」(空海『秘蔵宝鑰』))。また、こうしたいわゆる「悟りの境地」とは、実は(神秘主義学派に属する)錬金術師たちが目指していた「救済」でもあるとされる。
ここで、『鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST』第12話「一は全、全は一」におけるエドとアルの会話を見てみよう。
アルフォンスの「何もかもつながってる」という台詞からは、「縁起」が連想されるだろう。また、エドとアルの二人もタキと同じように、ある種「死」に触れたことがキッカケとなって、「縁起」的な考えに至ったことが窺えるのである(他の生き物の「死」が、自分たちの「生」の糧となる場面が描かれる)。
なお、二人の会話の最中に徐々にカメラが俯瞰していくのは、そうしてエドとアルの二人が、自分という存在が、無限の関係性によって成立している世界における、限定された存在のひとつであることを自覚していく様子を示すためだと思われる。
そしてエドとアルの二人は、「一は全、全は一」について、次のような答え(解釈)を出すのである。
エドとアルが出した答えからは、前述した西田幾多郎の思想における、世界(一般)と自己(個物)との「絶対矛盾的自己同一」(環境と主体との相即即入)が連想される(「西田においては、自己の根本は同時に世界の根本であり、世界の構造は同時に自己の構造である、と考えられている。彼は自己を世界と同性的なものとして、あるいは世界の自己限定の諸相としてとらえた」のである(小坂国継『西田哲学の研究』))。
「絶対矛盾的自己同一」とは、西田哲学において「事事無礙」や「ヘンカイパン」にほぼ対応する概念(論理)であり、「一即多、多即一」とも呼ばれるものである(なお、より正確に言えば、エドが言及しているのは「一即多、多即一」における「多即一」の側面であるため(「一が集まって全が存在できる」)、錬金術師であるエドの理解は、かなり物質的(科学的)世界に偏ったものであるとも言えるだろう)。
自己と世界との「絶対矛盾的自己同一」によって「縁起」という存在の理法に気づくことは、自己が世界に働きかけ、世界が自己に働きかけること、すなわち、創造することである。あるいは、もっと端的に言えば、よく生きることであろう。『蟲師』や『鋼の錬金術師』に限らず、これまでにも多くの作家が、こうした思想を根底にもつ物語を描き続けてきた(もちろん、無意識的に描いていた人もたくさんいたことだろう)。蟲などの奇妙な隣人も含めた他者(自然)との「つながり」が失われているとも言われる現代だからこそ、そうした物語は、より一層求められているのではないだろうか(今の時代において、「普通に生き」ていくのは「容易な事じゃあないだろう」(漫画『蟲師』第2巻「露を吸う群」) (*5) )。あるいは筆者には、そうした物語以上に、漫画やアニメという媒体を通して、現代の子供たちに伝えるべき大切なものなどないのではないか、とさえ思われる。
人は、他者の喜びや悲しみといった感情を、ミラーシステムを通してのみ理解するのではないはずだ。自己は自己、他者は他者でありながら、しかし同時に自己は他者でもあり、他者は自己でもある。そうした相互的な感覚が育まれていくことによって、より素直に、他者と喜びを分かち合ったり、悲しみや痛みを共有したりすることも可能となっていくことだろう(『鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST』第12話における、エドとアルとイズミの三人のように)。