松尾理論の問題点(その2)マルクスは過不足を問題視していない?

「経済理論」らしき記事を昨年のブログ記事からひっぱってくる企画…松尾匡氏らの「そろそろ左派は<経済>を語ろう」を好意的に紹介した後、問題点を指摘したもので、4回続く2回目です。(記事はブログ記事を若干手直ししています)

 松尾匡「ケインズ」理論への批判…「そろそろ左派は…」本の最後のほうで松尾氏はマルクスを持ち出してこう述べている。

 マルクスは「再生産表式」とかで、生産物を「生産手段」と「消費財」って二種類にまとめて、それぞれの需給一致条件を考えると言う話もありますが、あの式は「両財の超過需要の和がゼロ」になるようになっています。つまり、生産手段部門で超過需要が出ていたら、消費財部門でちょうど同じだけ超過供給が出る。だからあの世界では財の均衡条件式は、二部門想定しているのに1本しかない。これはいわゆる「セイ法則」なんですよ。(p273)

 「セイ法則」とは、要するに「作ったモノは全て売れる(貨幣に転化する)」という古典経済学の(したがって古典経済学を批判するマルクス経済学でも)前提であり、ケインズ的な見方をすれば「それはおかしいですよ」と批判されるシロモノなのだが、ここではこれについて述べない。
 問題は松尾氏が「再生産表式」について何も分かっていない(あるいは知っていてちゃんと説明していない?)ことである。
 「再生産表式」とは、マスクスが資本論2巻の20章や21章で「単純再生産」「拡大再生産」を考える時につかったものである。このときマルクスは部門Ⅰ(生産手段)と部門Ⅱ(消費財)に分けているのだが、それは部門Ⅰと部門Ⅱの生産物が交換できないから、分けて考える必要があるとしたためである。そして部門Ⅰ、部門Ⅱ間での過剰・過少について考察している。「両財の超過需要の和がゼロ」になるからOK…でとまっているわけでなく、ちゃんと過大・過少になる場合について考察している。

 具体的に見て行くと…
 生産物の価値W=C(原材料の価値)+V(労賃)+M(剰余価値)
 部門ⅠのV+Mが、部門ⅡのCになる
 だから、部門Ⅰ(V+M)と部門ⅡCの交換を比較してみる。ケースとしては
 ①Ⅰ(V+M)>ⅡC 拡大再生産
 ②Ⅰ(V+M)=ⅡC 単純再生産
 ③Ⅰ(v+M)<ⅡC 過剰生産…これで破綻する

 である。
 マルクスがちゃぁ~んと、過大・過少を考えて「資本主義は行きづまる」と証明していることがネグレクトされているのである。

 もちろんマルクスの言っている過剰生産と、ケインズの言っている過剰生産はリクツが違う…マルクスは生産したものの部門間で不均衡がおこることが問題であるのに対し、ケインズは相対的に需要が不足(供給力が過剰)になって生産物が貨幣に転化されないため、経済が回らないことが問題であるとしている。「セイ法則」が成り立つかどうか?という違いもある。
 松尾氏はこの後で、

 ただ、マルクス自体が恐慌を知らなかったわけではなくて、もちろん十分知っているわけですね。広い意味でのマルクスの政治経済学の中では、もちろん総需要不足の不況の存在とかは意識はされているんですが、経済理論として体系的に論じられてはいない。(p279)

 マルクスの時代、総需要不足が起こるとたちまち「恐慌」に陥って、工場はつぶれ労働者は街頭に放り出され、路頭に迷う状況になった。ただ工場がつぶれることで生産力が一旦オシャカになるため、総需要不足がすぐに解消され、また景気拡大局面に戻るのだ。だから「総需要不足」を理論づける必要はなかったとも言える。ただそこから逆読みして、マルクスが恐慌や「大量失業」についてあまり考えていなかったような書きぶり(「資本の有機的構成」が高まることで失業者が発生する云々…p279あたり)はいただけないのである。

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