タイトル02

05✒︎『たたみかた』僕らの読後感/記者・瀬木広哉さん

 僕は「たたみかた」を神棚に飾らないようにしたい。そういう態度が、この異色の社会文芸誌への最良の好意の示し方のような気がしている。

 「たたみかた」は「私」を起点とする雑誌なので、その感想を書く僕もまず「私」について書こうと思う。僕はある報道機関の文化部という部署で記者として働いている。2011年に東日本大震災、そして東京電力福島第1原発事故が起きたときは東京にいた。

当時は「東京も危ない」と西の方に避難する人もいれば、そんな人たちの行動を過剰反応だと批判する人もいた。善意の表明があちこちでなされる一方、そんな善意が避難しない福島の人たちへの一方的な非難に反転したりもした。「自分たちでなんとかするから、もう放っておいてくれ」という福島の人の言葉を聞いたこともある。みんなが躁状態になり、タガが外れてしまった気もしたし、社会に内在した分断が震災を機に浮き彫りになっただけのような気もした。


 僕はどうだったかというと、原発の状況や放射性物質の拡散の実態が分からない中で、ただただ怯え、足がすくんでいた。わけも分からずいらついてもいた。そんな僕が4月頭から1週間ほど、取材チームの一員として宮城県に滞在した。でも、何かができたという実感は皆無だった。僕は関西の出身で、もともと東北に縁がない。そんな自分がぱっと行って、避難所で取材した被災者に共感し、彼らの気持ちを代弁するのは、ひどく嘘っぽく思えた。福島第1原発が関東圏の電力のために存在することを知らなかった自分の、無自覚な加害性へのねじれた感情も頭をもたげていた。

一方で、そんな逡巡で自縄自縛になり、身動きが取れずにいる自分が情けなくもあった。四の五の言わず、できるだけ役に立とうと奮闘している人たちを前にすると、自分の小ささがより際立ち、いたたまれなくなった。率直に言って、相当にだめな状態だったと思う。

 1週間ほどの滞在を終えて帰途に就いたときは、安堵とか自己嫌悪とか無力感とか、いろいろな感情が僕の中で入り乱れていた。東京へと戻るバスから工場地帯に点々とともる灯りを見たとき、すーっと体の力が抜けていったことをよく覚えている。隠されてきた暴力性の象徴のようだった首都圏、関東圏の電力に安らぎのような感情を覚えたことで、さらに混乱した。今も僕は、その延長線上で生きている。

 そんな僕にとって「正しさは存在しない」という言葉は、救いでもある。「たたみかた」以前から、同様のことを言う人はいたし、僕はそういう人を好んで取材してきた。そこに何かヒントがあると感じつつ、その先がよく分からないでもいた。

 初めて「たたみかた」を手に取った時、「ついにこれを真正面から取り上げるメディアが出てきた」と興奮を覚えた。同じ思いを抱く人と出会えたような気持ちだった。ただその感情は、ちょっと危ういものでもあるとも思う。強い共感は仲間意識につながり、人はどうしてもそこに「正しさ」を見てしまう。「正しさは存在しない」という「正しさ」を。そもそも「正しさは存在しない」という考えは、共感にはなじまない。

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 これまで世に出てきた思想や言論系のメディアをつぶさに知っているわけではないけれど、多くには基調となる特定の思想やイデオロギーの色があったと思う。特定のメディアに定期的に触れていることで、人はある「正しさ」を共有できた。それは社会を動かす原動力にもなっただろうし、異なるイデオロギー間の分断を深めるという負の側面もあっただろう。

「たたみかた」の新しさはたぶん、そういう共有を前提にしないところにある。ここで語られていることが答えだとは思わないでください。僕は「たたみかた」から、そんなメッセージを受け取った気がする。それは、人に個として立つことを求める、ある意味では厳しいメッセージだ。

 「正しさは存在しない」という考えに賛同する以上は、あらゆる意見を許容し、同等に扱えなければ、やっぱり嘘になる。でも、それはとっても難しい。

例えばこの先、仮に日本がとても必要だとは思えない戦争に突入しそうだとなったとき、あるいはテロ支援国の空爆に参加しそうだとなったとき、僕はきっと反対するけれど、では賛成の立場の人の意見に、平等に耳を傾けることはできるだろうか。一応は聞いておく、という消極的な態度ではなく、積極的に理解しようと努めることができるだろうか。賛成する人への批判につながる言葉をSNSなどに書き込まずにいられるだろうか。極端な例かもしれないけど、それを想像することは大切だと思う。

 「たたみかた」創刊号で僧侶の藤田一照さんは「自分が今、吐こうとしている言葉や行いは『分断を深める』のか? それとも『繋がりを回復する』のか? を常に問うことが重要だと思うよ」と語る。僕はこの言葉に打たれた。考えを異にする相手を全否定する言葉が悪目立ちする今の社会状況の中で、この言葉以上の処方箋はないだろうと思う。社会の分断が悲劇を生むことを、僕らは歴史から学んでいる。だったらせめて、自分は分断を深める側にはできるだけ回らないでおこうと、思いを新たにした。

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 でも、大きな悲劇を防ぐ力になり得るのなら、「正しさ」を主張することも時には必要なのではないか。そんな迷いも、僕の中にはある。僕はこれまでのところデモに参加した経験がない。僕の中の何かが、自分がそういう行動をとることを止めてきた(もちろん、デモを否定するわけではく、そういった直接的な行動をとる人には一定の敬意も抱いている)。

そんな僕でも、この時ばかりはと官邸前に駆け付けるかもしれない。その時に僕が口にするのはきっと、良し悪しではなく、事実として、ある「正しさ」を声高に主張する言葉だろう。

 「たたみかた」を作った人、編集長の三根かよこさんなら、どう考えるだろうか。たぶん三根さんだって迷うんじゃないだろうかと、勝手に想像したりする。僕が考えるようなことは、三根さんだって当然考えているだろう。どこまで「正しさ」をそぎ落としていっても、すぐに別の「正しさ」が顔を出してしまう、そんな思考のいたちごっこのような危うさを誰よりも感じているのは、三根さん本人なんじゃないだろうか。

 ポップでフレンドリーなたたずまいの「たたみかた」だけど、この雑誌を世に出すのにどれほどの勇気が必要だっただろうか。それを思うと、安易な共感でこの試みを陳腐化させては申し訳ない。

寄りかかるのではなく、自立した人間としてお互いを尊重し、考えが食い違う時に対話の回路を遮断するのではなく、どうして考えが異なるのかを理解しようと語り合える友人のような雑誌に、読者と一緒に育っていってほしいと願うし、自分もその末席にいたい。だから僕は、「たたみかた」を神棚に飾ろうとは思わない。敬意を込めて。

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瀬木さん、感想本当にありがとうございました。震災以降、一人の記者として悩み、もがく瀬木さんの姿を思い浮かべながら読ませていただきました。

今日より明日を良くしたいだけなのに、
傷つけ合ってばかりの私たちは、
泣きたくなるほど“ままならない存在”ですね。

大言壮語は言いたくないし、確かな言葉なんてわからない。だからって、無関心を装って、見て見ぬフリをするのはもっとツライ。

—じゃあ、どうすれば。

自分が“今”この瞬間からできることは、大きなことを語ることでも、会ったこともない人を否定する言葉を吐くことでもない。ただ、自分が紡ぐ言葉や行いを点検し、『分断』ではなく『繋がり』を回復することを祈り、徹すること。それって、なんだか、肩透かしですよね。(ズコーですよね)

でも、それが難しいんですよね。
その難しさがわかる人でありたいなぁと、思うのです。

徒党を組まず、持ち場で一人孤独に、頑張れ。
これが『たたみかた』の発するメッセージです。

でも、たまには、集まって。慰めあって。言葉を交わし、考えて。また、元の場所に散っていく。それくらいの関係を、読者と一緒につくっていけたらいいなぁと思いました。

この本に隠した含意を読み取ってくれてありがとうございました。びっくりぽん。

(編集長・三根かよこより)

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