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04✒︎『たたみかた』僕らの読後感/灯台もと暮らし編集長・伊佐知美さん

◆たたみかたを読んでみて

言ってしまえば、世の中のすべては私にとって「文章を降らせる刺激」であって、ふわりふらり、その『たたみかた』も私に大きくインスピレーションを与えるひとつになった。

これは、もうどうしようもなく、読後感というよりも私本位の独白、だと思う。

三根かよこという女性が、私と同い年であることは、そういえばもう随分と前から知っていた気がする。

けれど久しぶりに1ページ目から最後のページを繰るまで、雑誌というものを1冊すべて一気に読み終えてしまった私は、奥付に(編集長・デザイン・文)と肩書のある彼女を見て、「そうか1986年生まれか」ともう一度噛みしめる。

そう、その同い年の女性は、もともとデザイナーであったはずなのだ。ミネシンゴという太陽のような男性の対である(という私の中での認識だった)かよこさんは、デザインを生業としていた、はず。そうか文章も書いて、ひとつ媒体を作り上げてしまうほどの胆力と芯のある女性。

こうして『たたみかた』は、それ自体が何か力を持つ1冊であると同時に、同い年の同じ女性、ともに「編集長」という肩書を持つ私たちの「何かの発露であるのだ」という前提と意味合いを持って、私の手の中で読み始められることになる。

✒︎

正直にいえば、すでに申し上げた通り、1冊の雑誌を最初から最後まできちんと一気に読み進められたという経験は、あまりない。最近でいえば『MEKURU VOL.7』の小泉今日子特集。そして『たたみかた』。

どちらも芯の通った「作品」に私には見えていた。特に後者はおそらく途上だ。これがひとつの区切りであり、きっとこれから何かが始まるのだろう。

冒頭は魚屋さんでの会話から始まる。等身大の女性の、すなおな心。

『たたみかた』を創刊しようと、明確に決めたのは3年ほど前。

そうか、そんなに前から構想は練られていたのか。

『主張や立ち位置を示せないメディアに、存在価値はないよ』と言われたことがある。でも、私は「そうかなぁ?」と思ったのだ。

うん、私も「そうかなぁ?」と思うことは日常で本当によくある。だってみんな、「無理だよ」とか「難しいよ」とか、簡単に言うんだもの。私は、半ば中指を立てながら「そうかなぁ?」と言う。けれどきっと彼女は、柔らかに首をかしげながら「そうかなぁ?」とでも言うのだろう。

だって、そういう主張や立ち位置が、どこからやって来たのかが、私にとっての問題なのだ。

あ、この人はそれを知っているんだ。「私たち」の正しさや間違い、「こっちよりもあっち」「あなたより私」などのすべての判断が「どこかから」やってきたものであることを。

そうそう、私は読み進めながらずっと思う。「この人は、なんて地をゆく目線を持ち続けられる人なのだろう」と。

そして「長い時間をかけて、"きちんと向き合うこと"をどうしてこの人は、こんなにも自らに強いるのだろう(たとえそれが本人にとって自然でも、避けて通れないことだとしても)」。

あと、やっぱりこうも思っていた。「そうか、この人は知っているんだ」。

ふつうに自分たちで写真を撮って、文章を書いて、媒体を作り上げる。その大切さと意味。たとえそれが私よりも数百倍のクオリティで仕上げられるものだったとしても、遠くにそれを分かち合える同志がいる。……と私は勝手に嬉しくなって、「先輩」と思いながら途中からページを繰る。否、もしかしたら「くそう」と少し悔しくなってもいたかもしれない。あからさまに中指は立てずとも。


小松理虔さん、石戸諭さん、そして途中でどうしてだかゴキブリの話を経て『たたみかた』の物語は後編に入ってゆく。

哲学や仏教の話を超えて、最後の方に私の心を掴んで離さなかったのは、ソマリアの永井陽右さんのインタビューだった。内容はもちろん、「1年後、私は彼に取材を申し込んだ」その一文に、胸の何かを持っていかれる。

そうだよね、かよこさん。昨日や今日の話じゃない。「一朝一夕」からは遠いところで、あなたは「命題」を抱えて生きてきたんだ。そしてこれからも生きていこうと決めていた。いやきっと、そうしなければ気持ちよく、本当の意味で美しく生きられないと「知った」んだ。

ソマリアを経由し海外という日本の外の目の話を繰り広げ、物語は終焉に向かってゆく。巻末を飾るのは、ほかでもない彼女の実父との会話だった。

私は思う。「ずるい」と。上手すぎたのだ。構成と、内容が。

もちろん「福島」というどこかえぐるような鋭さを、彼女はしっかりと突き立てた。だから私も「うっ」となりながらも、嘔吐しながらも、きちんと向き合った(向き合わざるを得なかった。そしてそれが今でよかったと思い、感謝をする)のだけれど。

それを超えて私は彼女の「編集長としての媒体とテーマへの向き合い方」に、ひとりの女性として惚れ込まざるを得ない気持ちを残す。そしてその陰にいつもミネシンゴさんを感じたことについて、私は少しうらやましいなぁ、とも思っていた。

あれ?これは何の話なのでしたっけ? そうそう、『たたみかた』の読後感の話。つまり申し上げたいのは、「没入感」と「向き合う」こと。

たたみかたとは、『方向性』のこと

らしい。そしてそれは、今この瞬間から決めることができる、と。

であれば私は、彼女のようにきちんと媒体とテーマに向き合う編集長でありたい。同い年の女性として、この世界にふたり肩を並べていっしょにモノ作りができるくらいに。ならねばなぁ。

……ほらね、やっぱり全然読後感じゃない。完全なる私の独白。いろんな読み方ができるよって、ただただ伝えたかっただけみたいになってる。

とにかくまだ読んでいない人は、一度ページを捲ってみたりするといいと思う。深くて奥底に染み込むように切なくて爽やかで、とても素敵な本だったから。

ちなみに私が『たたみかた』を物語だと申し上げたのは、内容うんぬんではなく、創作という意味合いではまったくなく。この雑誌の佇まいそのものが、三根かよこという女性が見た世の中のストーリーであり、まだまだ続いていくものなのだろうと感じたからだ。

全体を通して、「こいつ何言ってんの?」とでも、思われてしまったかしら? けれどこれが、現時点での私の正しさ、だったりして。

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伊佐さん、感想本当にありがとうございました。
この記事につかう写真を撮影した日。そよそよと風になびく伊佐さんの綺麗な髪の毛を見つめていました。

伊佐さんが空を飛び回る鳥だとしたら、私は……光の届かない深海で生きる魚のような人間だと思う(卑屈な意味ではなくてね)。その魚は鳥の生き方に憧れながらも、きっと、自分が深海に生まれてきた意味を考え、手を伸ばし、その役割をつかみ取ろうとするのだと思います。鳥には鳥の、魚には魚の、喜びと悲しみがあるとも思うしね。

改めて、“旅に出られる人は強い人”、私はそう思うのです。自由であることは、“乗り越える強さ”とトレードオフだと思うし、今この場にいることの心地よさを抜け出ることが、人にとってどれだけ難しいことか。

同い年の私たち。
ときどき交じり合い、横目でチラチラと活躍を覗きみながら、細く長く、同じ時代を生きていけたら嬉しいなぁ。また近いうちに会いましょう。きっと。
(編集長・三根かよこより)

伊佐知美さんTwitter
伊佐さんが編集長をつとめる灯台もと暮らし

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