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犬がいないとき(未来のことを言うの続き)

pixabayのSeaq68の写真に文字を乗せたもの

 犬の話をしましょうか。犬の話をしよう。
 例として一つ書いておくと、犬がいなくなったときなどは最もわからない感じがする。
 「犬は見つかるだろうか」という(質問を受けたとき)、通常はわからなくて当然の質問だと思うでしょう。
 だけど相手が親しければ何とかして答えようとするわけです。

 これは正解が出せるか、言うことが正解か、というよりも、まず精神力とか、誠実に、外しても本当に直観とか、直感とかの通りに言えるかどうかを自分に試さなければならないでしょう。
 尚且つ正解であってようやく人が納得してくれるわけですから、犬が見つかるか、見つからないか、現実に結果が見えるまで困る。
 だから非常に困る質問です。
 しかしここでよく考えると、向かう未来に対して方針を定めたい。それに協力してもらいたいというのが未来をたずねるときの質問の本質であることが殆どです。

 本質のない質問もあります。
 方針ではなくて、単に未来を自分の思い通りになると信じたい場合、この場合は思い通りのことを言わないと(質問者は)納得はできないわけです。
 (未来のことを言うのではなく、当人が望んでいることを言い当てるのですから、質問の形はしていますが、質問ではありません)

 犬の場合は、どこにいるのか、そこに行けば本当にまたその犬に会えるのか、会えないならそれはなぜか、確率を会えるように上げられる行動はあるか。ということです。

 ここでいきなり君子の心になるべしと言えるのは、余程の知力を証明した場合でしょう。
 けれど、この質問に答えを出すのを諦められない何かが、わたしの中にも働く。
 なんという無茶な質問だろう!と思いながら、何かが脳裏に浮かんでくれないだろうかと目を瞑って、そのときを待つわけです。

 でもこれは、創造に近いだろうと思います。
 芸術をする人のように、物や場面から何かを感じ取って、自分の感覚や感情の含まれた状態のものにする人は、このような動作を人がすることに、心当たりがありませんか?
 わたしはそんな人は、いると思う。

次は、それで犬には会えるのかを書いておこうと思います。

難しいです……。