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ミッキーマウスの額みたいな犬(未来を言うの続き)

pixabayのAndrey_and_Olesyaさんの写真に文字を乗せたもの

 先日また、犬がいなくなって探しているという方がいました。別に犬のことばかりではないけれど、ここでは犬のことだけを例にお話します。

 わたしはまた五感を閉じて、自分のために何か忙しなく考えたりするのもやめて、「そのいなくなった犬とは?」という疑問だけを思う。
 そうすると、額がミッキーマウスのように富士額になった白と茶色の犬の顔が脳裡に浮かんだ。
 それがその方の探している犬の顔かどうかはわからない。
 そこで写真を送ってもらったところ、その犬は本当に白と茶色で、ミッキーマウスのような富士額をしているのです。

 (補足:ここで得意気になったり、鼻を高くするようなのはわたしは実際、勘のよく当たる人はしない態度だろうと思います。現実的には勘が当たった瞬間は毎度『マジか!』『うわぁ本当だ』という反応をするだろうと思います。)

 この、現実と脳裡に浮かんだものが一致したときの歓びというのか、(驚いた後に)自分を信じて溜め息をついて、武者震いが起こる感じというものは、至上の次くらいに嬉しいものです。
 これがわたしにとって、本物の瞬間であることは間違いなく、本物、本当のことに触れる、見つけるのは頭や心ではなくて、全身が喜ぶ。

 だけど全身で喜ぶ瞬間を狙っていては、これが起こらないのです。
 だから、そういうものを昔から人は、愛と呼んでいるのだろうと、わたしは思っています。
 (浪漫がないように感じるかも知れないけれど、わたしはこの方が浪漫があるように思う。喜ぼうとも思っていなかったところで、喜ぶようなことがある。またはそういう人を見ることがある。ということを指していると思うのです。それは本当に突然に自然に起こる。
 だから、受け取る側が嫌だというものを無理やり押し付けようとするのを、それを愛と呼ぶのは壊れていませんかね。壊れてると思うんですけどね。
 愛はよく理解しないで闇雲に信じようとしたり操作しようとしたりすると、非常に堕落した気持ち悪いものになるというのは、こういうわけがあると思うのです。)

つづく

難しいです……。