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望遠鏡が意思を持ったら見えない(未来を言うの続き)

pixabayのEngine_Akyurtさんの写真に文字を乗せたもの

  未来のことを言うときに、こんな風によくわからないものを見るのでも、そのときには微かに、何か情報が無ければ無くても、脳裡に浮かぶものをこうして捉えられる運動が自分の中に起こることは、安心感を生みます。

 わたしは自分の脳には常々、何か刺激が与えられないと、独自で快い運動が起こせないのではないかと、心細くなっている。
 心細さを解消できるような刺激には、全く自然なものという性質があるとわかっているにもかかわらず、全く自然な刺激を探し出すのに、自然ではない刺激をたくさん受けて、心細さが拭えていないことに焦ったりしている。

 自分の中に自然な反応はたくさんあるということを、もっと自覚しておくといい。
 少なくともわたしはうっすら、そのほうが安心感があるようだということに、気付きかけています。
(完全ではありません。まだ今は、心細さに負けることが多いから。)

 そして、このような、映像が浮かんできているときに、それを途切れさせるとか、不誠実にする方法も、わたしは知っている。

 それは脳裡に浮かべることを意図したり、望み通りにコントロールしようとすることです。
 たとえば、犬がいなくなったと聞けば、わたしにも、犬が無事で帰って来てくれるといい、という心情が働く。
 そのまま(心情を引きずったまま)見ようとすると、納得の行かないものを見たときや、意味がわからなかったときに、それを自分で無視してしまう。
 どんなにか犬を心配しているかという話を聞いて気の毒に思う。気の毒が過ぎると感覚はまともに働いてくれなくなるらしく、映し出すことも、認識することも、質問者に応えられるようなものではなくなってしまう。
(何も見えなくなるか、見たものがただの想像なのではないかという疑念が働いて、判断が出来ません。)

 恐らくわたしはこのようなときは望遠鏡の役目をしているから、意思を持ってはならないのでしょう。
 望遠鏡が意思を持つようになったら、人間は遠くのものをありのままに観察することが出来なくなると思う。

 意思というのはこういう風に、目的から逸れるように働くことが多くて、自分でも自分の邪魔をしていることが人には割とあると思うのですけれど、どうでしょうか。

つづく

難しいです……。