多分それを言うためです。(未来を言うの続き)
いい忘れたけど、ところで志と忘れるって字が似過ぎていて、志は、そのときは士たちが心の中にいて(士たちってなんだろうね)、忘は心の中の士たちが死んだんだろうか?なんて、考えてしまった。
今はその話ではないけど、そう、言い忘れたけど、犬は工場の敷地の隅にこしらえられていた小さな造植林に隠れていた。
というのを(後で)聞いて、わたしの胸が希望に躍った。わかるかしら。
わたし、わたしに限らず、人って、もしかして本当に、望遠鏡みたいに、わからないことをわかるようにすることができるのかも知れないって。
だけど、大切な人には間違わないようにこの話をしないと。
本当に真剣に、我を捨てたときに見えたものしか役に立たない。
それで、判断し辛いでしょう。
我を捨てられているのかどうかなんて、自分で、わからないときたくさんあると思います。
(でも)それでもいいみたい。
なぜならば、わたし、人に大事なことを教えてもらいました。
じっと考えてると、最初に言ったのが間違ってたんじゃないかと心配になってくるとわたしが打ち明けて
「敷地の広い、学校とか、工場とか、裁判所とか、銀行とかって言ったけど、もう一人の自分が、いやいや何を根拠にそんなことを言うのよって、打ち消そうとしてしまう。」
と話したときに、
「もっと自分を信じるべきだ。不思議だけれど、最初にいうことがあなたは最も、実際に近いのだから、最初に出てきたことを自分で信じられるようになって、はっきり伝えてほしい。それがわたしたちの指針になっているのだから。」
ということを聞いて、そのときわたしは嘗ての友人たちが「自信を持って」と言っていたのを思い出した。
その言葉の意味は正確にはわからなかったし、信じられなかったけれど、自分でも信じられないような答えが自分の中から出てきたとき、少しは耳を貸すべきだと思うの。
どうしてそれを思い浮かべたのかって。
自分でも理由がわからない突拍子もないことが浮かんだら、書き留めておいて。
いつかどこかでそのことが、誰かか、自分の役に立つかも知れない。(多分それを言うためです。)
難しいです……。