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異邦人感覚 - オレ、日本人じゃないのかもしれない

昔懐かしいヒット曲にありましたね「異邦人」ってのが

どう表現するのが適切なのか悩ましいのですが、昔から「ここは、自分がいてはいけない場所なのかな」「自分はここのルールに従えない人なのかな」という感覚が、何となくありました。

いや、それはオマエが我が儘で「ここ」に合わせようとしなかっただけだろ?って批判は甘受しますが、合わせようと努力したんですよ?
ここに委細は記しませんが。

しかしその努力はある時点で「最初は蜜月だった組織との不適合、やがて追放」という形で水泡に帰すわけですよ。一度や二度じゃない。

これってどういうことよ!!!
一生ずっとこういうことを繰り返さなきゃいけないのかよ!!!

死にたいと思ったことは一度もありません。
何とかして生き延びたい、そのために逃げたいと思ったことは何度もあります。こんなところで、自分の本意ではなく死ねるかと。

その挙げ句の果てが今の自分なのですが。

でもこうなると、「これが自分なんだ。日本の中の『異邦人』として生きて、何かしら肯定的な価値を見いだして送り出していくことが、自分が『ここ』で活きる道なんだ」と、開き直るしかないのかもしれません。

メインストリームには決して乗らないし乗れない。
しかし、脇や隙間で何となく「いないとちょっと違和感あるなあ」ぐらいの存在感を醸し出せればいいのか。
あるいは、外野に徹して「たまにアイツ、イイこと言うなあ」的ポジションを見つけるか作るか。

例えば、今は亡き、京大の森毅(もり つよし)せんせ。

彼の文章は高校時代からよく読んでいたのですが、こういう存在感って大切だと思うのですよね。飄々としたカナリアというか、刺々しくなくも鋭い時代への警告を出し続けていた人ではないでしょうか。

意図してそういうポジションを目指したのか、彼の内面深いところの赴くままに従い続けたらこうなったのか。それはもう知る由もありませんし、どちらでも構わないのですが。

いつまでも拭えないし、おそらく今生では拭えそうもない「異邦人(よそもの)」感覚。
日本という社会の中で、人が見ないところを見て、人が聞かない言葉を聞き、人が感じない微妙なものを感じ取る。
その結果、日本人としてあるべきでない振る舞いや言動を成してしまうかもしれないけれど、それを「日本人として不出来なヤツ」と貶めるのではなく、時代を先に進めるために活かせないだろうか。

もう回り道や実験や修行はしません。
別の顔(ペルソナ)も作りません。
自分の奥深くにあるミッションを生きるため、最短距離を進みます。


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