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絵が絵でしかないこと:クリムト展をみて

東京都美術館で「クリムト展:ウィーンと日本」を観た。絵が絵でしかないことを、クリムトは突き詰めて描いていると思った。なぜだろうか。

人間模様

「ベートーヴェン・フリーズ」の中で、同じ姿の人間がくり返し描かれている。おそらく女性だと思うのだが、彼女らは主役ではない。脇役だ。役すら与えられていないのかもしれない。まるで、舞台背景みたいだ。彼女たちは模様。人間模様だ。

僕たちは絵を1つの世界として見ることができる。そのとき、そこに描かれている人間は、その世界の住人だ。対照的に、模様は表面だ。そこに世界はない。むしろ、模様は世界の一部だ。

人間を模様にしてしまう。ひどいことかもしれないけど、それができてしまうことが絵が絵であることだと、僕は思う。なんにせよ、この模様は本当に美しい。

表面が生まれる

模様を描くには表面が必要だ。逆に言えば、模様を見るとき、僕たちはそこに表面を感じ取る。

「オイゲニア・プリマフェージの肖像」は色鮮やかな模様の服が印象的だ。それに目を奪われていると、模様は、服を着た彼女を離れて、別の表面に存在しているように見えてくる。背景のいくつかの面も、模様をもっている。その面の中に、顔と首と手が浮かんでいるように見えてくる。

「女の三世代」の老いた女性と子を抱いた女性とは、それぞれ別の模様を周囲にまとっている。だから、それは隣り合っていても別の面にいるように見える。偶然、僕たちからは隣り合っているように見えるだけなのかもしれない。

他の面が模様を持っていると、黒塗りの面もまた模様であるように思える。この背景の2つの面には誰もいない。そこには、不在が描かれているような気がする。

複数の面を、それぞれ1つの世界として見てもいいかもしれない。ならば、僕たちが世界と思っているものも、ある1つの面でしかないんだろうか。

模様としての絵

ヨーゼフ・マリア・オルブリッヒが設計したセセッション館に、「ベートーヴェン・フリーズ」は設置されている。東京都美術館の展示は複製画だが、現地での展示が再現されているようだ。ホワイトボックスの空間に展示されていると、この絵のために、空間が用意されているように見える。しかし、現在展示されているのは地下室で、もともとはホールに展示されていた。

フリーズは、建築の部位の名前だ。タイトルにそれを示していることを考えると、この絵はフリーズを彩る模様として描かれたのではないかと思えてくる。人間を模様として描くこの絵が、それ自体、建築の模様だった。

クリムトはもともと多くの劇場の装飾を手がけていた。彼の絵が1つの世界として見られるのではなく、模様として見られることは、彼にとって当たり前の前提だったのではないかと、そんな想像をしている。

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