8/12 三十七回忌 御巣鷹の尾根のこと

2021年の8月12日は、1985年日航機123便の墜落事故から丸三十六年という年月を経た日付であり、そこでお亡くなりになった方々をお弔いする法要としては、三十七回忌にあたります。
通常、故人の法要は三十三回忌が“弔い上げ”とされていて、そこでもって法要に区切りをつけることが一般的らしいです。なのでその四年後にあっては、ご親族のみによるごく形式的なものになるということを伺っています。

この、悲劇でしかない出来事にあえて言及させて頂く理由があるとすれば、僕が現場となった地である群馬県の生まれだということと、ここの公務員だった父が事後の作業に一部関わった(詳細は聞いていません)ということに存しているかなとは申し上げられます。
この事故のあった日、僕はまだ母の胎内にいました。 


1999年夏、今では信じられないけどノストラダムスが牽引する物語が効力を持っていた時代。中学生だった僕は当時属していた自然科学部の顧問の先生の引率で、御巣鷹山を登りました。

日付は覚えていないけれど、前夜に電波少年をやっていたから、月曜日だったと思います。夏休みに入ったばかりだったと。朝から準備をして先生と数人の中学生で山を登って、尾根の慰霊碑「昇魂之碑」に手を合わせました。

そして。夏休みをまるまる使って、自然科学部はある作業を行いました。

その最終日。学校の校庭に、僕たちは御巣鷹の尾根に向かってナスカの地上絵のようにいっぱいに大きな航空機の図を描きました。そして厚紙を星の形に切りとり、亡くなった方の数だけ散りばめたのです。

これは、未来から過去に向けての慰霊でした。
数学でいう“相似”の拡大法を用いて、小さな飛行機の図から角度と比のルールに則って、石灰で校庭に線を引いていき、いっぱいに広がる大きな飛行機の画を描きました。
大人になった今から思えば、これには空の上に居る死者への弔いの意味があるというナスカの地上絵へのオマージュであると推察できるのですが、当時は大きな視点を獲得できてはいなかったので、ただ目標に向かい進む敬虔な気持ちだけで行っていたと思います。

このとき、地元の新聞社に取材してもらって上空から写真を撮ったので、それはどこかに残っているとは思います。
後に、空から見て完成した一葉を見てはじめて、得心したのを覚えています。

この出来事は、個人的には忘れらないこととなり、毎年夏がくるたびに思い出します。空の平和を願い、この大地にボンヤリ立っているだけの小さな自分に絶望せず、生きてる者として出来ることを探すのです。

僕は、誰かに何かを伝えられる方法を知っているのではなかったか。何度だって言い聞かせてきたこのことを、忘れずに。

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