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はじめましてと変遷とこれからのこと

 筆名「高橋多探」本名「高橋伸也」ともうします。

 多探(たたん)は私の好きな洋菓子「タルトタタン」から拝借。

 岩手県一関市出身。

 大工と美容師の両親から産まれました。

 高校三年生のころ、勉強部屋で読んだ村上春樹作「風の歌を聞け」を読んで衝撃をうけ(べたですいません)、自分も誰かの記憶に残る作品を作りたいと強く思い立ち、ただの読書家だった自分が創作の道へ転換することになりました。

 一応進学校に在学していたので大学受験勉強をしていたのですが、その時自衛隊地方連絡部から届いた募集ハガキをみて

「勉強もできない凡人の私が普通の生活したんじゃ先達に届かない。なんでもいいから今やれることやってみよう。大学は後でも行ける」

と半ば暴走し入隊を決意。(同級生からは笑われましたが)

 第八期空曹候補士過程として入隊。熊谷基地第二教育隊へ配属されました。(ちなみに曹候補士は十期をもって廃止されたのでご存じない方も多いかと思います)

 怠惰な自分に鞭を打ち前期教育課程をなんとか修了。         

 ここで裏話。航空自衛隊の教育隊には第一(防府)と第二(熊谷)がありますが昔から鬼の一教、仏の二教と呼ばれていて二教だったのがよかったのだと思います。所説ありますが、理由として防府基地はパイロットなどの様々な教育課程が混在する純粋たる教育基地。熊谷基地は一般部隊に併設された教育隊という位置づけもあるかのかなと

 本当は航空管制官や要撃管制官に進みたかったのですが曹候補士では枠がありませんでした。そこでレーダーサイトに近い職種はと…一覧を見てみると…ありました。無線通信情報過程。

 後期は第四術科学校、無線通信情報過程修了。

 配属先はちょっと変わった部隊でした。内容を詳しくはかけないのですが、陸上自衛隊東千歳駐屯地内の奥の奥、東千歳通信所という陸の孤島のような場所です。そこが北方の中央指揮になっていて奥尻、根室、稚内の各分遣班で構成されます。

 ここでうれしい誤算が。モールス信号の入力にPCを使うためタッチタイピングをきっちりマスターできました。空自なので資格取得とは無縁でしたが、これだけでも入ってよかったと思っとります。練習に使うのは古式ゆかしいタイプライターでしたが、それも今だとなかなかないでしょう?

 いい感じにお金もたまり一通りのことは経験できましたので除隊。

 北海道から東京の大学へ進みます。当時仏教哲学にかぶれていた私は立正大学仏教学部仏教学科夜学へ。バイトなどをしながら大学生活を送りました。

 それほど長くない人生ですが振り返るにもっとも幸福な時だったように思います。授業はもちろん刺激的でしたが、遺跡発掘の仕事や、バイトではいった有名書店で名物バイヤーに薫陶を受けたり、推理小説で有名なS出版社の配送センターでバイトしたり……etc.。(バイトだけかよ笑)

 しかし幸福は長くは続きません。徐々に体調不良が続き、精神がむしばまれていきました。楽しさにかまけて体調には無頓着でした。執筆からは遠のいていきます。

 休学届を出し環境を変えようと求人情報誌でサラブレッド生産牧場のスタッフ募集に応募します。

 ここまで読まれた方はお気づきでしょうが、私は超無鉄砲なのです笑

 再びの北海道は日高地方へ。都会の喧騒から離れ環境を変えれば調子は良くなるだろうという素人考えです。

 しかしやはりうまくいきませんでした。牧場は牧場で楽しかったのですが、大学には正式に退学届けを出し、泣く泣く放浪を終えて帰郷することに。

 この時24歳。

 帰郷して間もなく、数日間の幻覚妄想を体験した後通院。

 統合失調症と診断され即入院。五年間の長い長い闘病生活が始まります。

 加療中の出来事は省きます。いろんな書籍やネットで症状については解説されてますので。

 復調してきた五年後の29歳の時、今現在勤めている会社に数奇な運命で就職し、現在に至ります。

 必死で仕事をしてきましたが徐々に慣れ生活基盤が整い、時間に余裕ができたとき、ようやく自分には物語を書いていい資格を手にしたようにおもいました。気付けば36歳を過ぎていました。

 本来であれば令和二年六月二十一日に開催予定でした文学フリマ岩手に出品予定作品を今エブリスタで連載をしております。

 今後はたとえ商業ベースに載らなくてもこつこつ作品を投稿していきたいと思います。故郷の大先輩宮沢賢治は死後発表された全集が評価され現在のとおりになったのですから(これは大言壮語)

長い長い自己紹介にお付き合いいただきありがとうございます。

今後ともぜひよろしくお願いいたします。

令和二年七月三十日 40歳

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