(231016a) 優しいも乱暴で周囲を顧みないも、結局は、自分が都合よければ良い?

日本の神々の内で、
スサノオノミコトという神様は、けっこうな乱暴者だったと聞く。

名前をド忘れしているが、優しい神様も居た。
古事記に出てくる「因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)」の所の、
オホナムチノ神が、一つの例だと思う。

どこの箇所だったかは忘れたのだが、
ある乱暴な神様は、ある優しい神様の事を、
(立派である)と認めた事を見聞きした事がある。
ここで、もし「優しい」事を認めて素晴らしいとしていたならば、
その乱暴な神様は、優しい神様になろうとするハズである。
でも、その神様は乱暴なまま、優しい神様を認めた。

要は、厳しくて残酷な世界を渡っていければ、良いのであろう。
そして、「優しい」という性格は、けっこう、この条件には、
適合しないのかも知れない。
だから、一般的には、「乱暴」「冷酷で残忍」な性格が、
よく見掛けられるのでは無いだろうか?

他人にとって、「乱暴、冷酷で残忍」な性格は、イヤなモノである。
しかし、その他人たちが自分の都合にばかり偏って、付け上がって、
ケンカを売ってくるなどしない為には、
「乱暴、冷酷で残忍」という性格は、けっこう良い防波堤になるのでは?
無いだろうか。

誰に於いても、「自分さえよければ良い」という基準は変わらないと思う。
ただ、自分だけで、世界が意のままになる筈もなく、
だから、周囲の神々や人間たちと、
うまく!(これが難しい)付き合って行く必要がある。

要は、結果的に「自分さえ良ければ良い」を実現できれば良い。
だが、この事を実現する事は、誰でも苦しむ。正解は一つではない。

誠実で優しいならば、他人から信頼され頼りにされるであろう。
でも、その人を、利用(自分の都合の良い様に悪用)しようとする人も
出て来るだろう。

そんなこんなを考えていると、「乱暴で、残忍で冷酷」な性格も、
「世を渡ってゆく」方法論としては、確かに、一つの方法論かも・・・と
思うようになった。

今までは、この世の大人達は「誠実で謙虚で、感謝深い人間になりなさい」などと教えたモノだが、これらの教えは、子供たちの為では無く、
自分たち大人にとって都合良くする為に、子供たちを利用して悪用しようと
して、こんな事を教え込んでいた?のかも、と思うようにもなって来た。

まあ、言われた通りにすれば、大人にとって都合が良い人間たちだから、
大人たちは、いい様に子供達を利用し悪用して、満足しているから、
子供たちに手出しをする事がない。
でも、それは、自分たち大人の為であって、子供たちの幸せなど、
カケラも考えていない。と思うようになった。

まあ、大人たちから憎まれて、集中攻撃の対象になるのは、
子供たちにとって、酷な話である。だから、こんな話は言えないが、
でも、そんなカラクリを感じ始めて来た。

結局、大人たちは、子供たちを心配などしておらず、
自分達だけさえ良ければ、子供たちなどどのような不幸になっても、
構わないのでは、と、思うようになった。

それだったら、子供たちも、
大人たちに当分は従っているフリするのも良いが、
大人たちが用済みになったら、ポイ捨てするのも可である。

結局、そうなってくる。

その様な事を考えて、僕は、はじめて、
「(日本の)乱暴な神様たち」の事を理解し、是認できる様になった。

そんな感じです。

以上です。