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雪の日

昨日東京は四年ぶりの大雪。

この日を撮らずにどうするかという気持ちだったのだけど、生憎の夜勤明け。思うようにフットワークがうまくいかず、おまけに外付けフラッシュを忘れるという痛恨のミス。内蔵フラッシュで対応したけれど、もっといけたんじゃないかと思っている。

ただそれでも数枚は撮れたか。

半ば寒さと眠気で朦朧としていたのだけど、撮影しないよりはまし。

そして、なかなか至近距離は覚悟も必要なので、本日はぐったり。

ただなんというか、商業写真家とは違い、これが特に誰かに頼まれてやっているわけでも即座にギャラが入ってくるわけでもなく、自分の好き、ただそれだけでやっていること。

ストリート写真はその好きさ加減の度合いだけじゃないかと思う。

どれだけ打ち込めるか、それを行動に移せるか、その度量の大きさに比例してくるものだと思う。

勿論、これはいづれは写真集や展示、何らかのコンペに使う日が来るかもしれない。だけど、基本的には自分のプロジェクトを粛々と進めているということ。

晴れ、曇り、雨、雪、はたまた台風、等々。気候の違いに応じてさまざまな街、人の顔を撮影する。

そうして日々撮影していくことで一つのプロジェクトに深みが増してくる。

どのようなものでもそうだと思うけれど、分母の数が大きければ大きいほど、経験値、量としてセレクトするものもより相手に訴求できるものを選択することができる。

なので当たり前だけど大切なことは日々続けていくこと。

その中でこれだというピンポイントで訴求したいものが見つかれば、今度はそこを徹底的に追求していく。

少なくとも自分はそうした方法で撮影を継続、折を見てコンペ、展示等。

つまりテーマの設定は、日々撮影していく中で出てくるもので、初めから決まっているわけでもない。

仮に決めて撮っていたとしても、自ずと必然的に変化してくる。

そのようなやり方でやってきて、今自分の中にあるテーマというのは、被写体との対峙、摩擦感、軋轢感、街全体が持つそうした情動性みたいなもの。

ここを徹底的に追求しようと。

なので雪の日はそうしたものが顕著に表れやすいから意地でも撮影した次第。

これが違うテーマを持ち合わせているなら、特に撮影する必要もなかったかもしれない。

ただ基本的に理屈抜きで撮影が楽しい、写真が楽しいというものを持ち合わせているので、これが全ての根底ではあると思う。

写真を使ってカネ儲けや名声を得るのは勿論結構だしそれはそれで構わない。

そして勿論、自分もそうなれるならそうなってほしい。

ただしかし単純にカネ儲けしたいなら株でもやっていればいいと思う。

今ならビットコインか。

そうしたもの抜きに純粋に写真で表現しようとすること。

商業ではなく作家として何が表現できるのか、どう訴えるのか。

その為には、直接写真とは関係のないあらゆる自身の経験値が大きくものをいう。深みが増すのだ。

それはエロス、タナトス、愛情であったり、映画、読書、はたまた犬との散歩からインスピレーションを受けたり。

あるいは展示、写真集。

あるいはポートレート撮影。及びその際の会話その他あらゆること全て。

それが一点の曇りなく純粋に写真として表出されるとき、一つの到達点になるのかもしれない。

とまれ、雪の日。

その情動性、エモーショナルなもの。

そうしたものが映し出せるよう、これからも撮り続けるしか、そして歩き続けるしかない。

君は初期衝動を持って撮影しているか。



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