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個人的な写真の行方

世間的にストリート写真は寄りも引きもカラーもモノクロも出尽くし、アレ・ブレ・ボケ、リフレクション、フラッシュ撮影等の表現手法等も一巡し、さてこれからの表現手法は。

よりシリアスなもの。ファニーショット。ニューカラー。ブレッソン的決定的瞬間。あるいはアンチクライマックス。

それも出尽くしている。

けれどもストリート写真は永遠だ。

何故ならば、そこに生身の人間が今、存在しているから。

街が今、存在しているから。

そこに今、空気があるから。

それは今、この時代でしかできないことだから。

そして極めて私的には、己の情動が穏便にならない限り、上記表現手法がたとえ既出のものであっても表出したい。そしてその目的のために撮り続けること。衝動。

簡単に言うと、心の叫びがある限り、それを写真という媒体で伝えたい。

そこに今の時代にしか撮れないものが出てくるのではないか。

その伝え方は、より簡潔な方がいいと思っている。

よりシンプルに。ストレートに。

何故ならば、自分がそういう人間だから。もしくはなりたいから。

かつてパンクロックを愛して止まず、それをギタリストとしてかき鳴らした表現手法から、写真という媒体へ。

根っこにあるのは音楽。

いつもビートが地下水脈のなかで重奏低音の如く鳴り響いている。

パンクロックが永遠であるように、写真の初期衝動も永遠ではないのか。

そして、その自身の心象と、対象となる今現在の被写体の心象がクロスしたその瞬間。

そこを切り取る。

そして提示する。

これが今、やりたいこと。

既視感のある写真であろうとなかろうと、自身が出来ることをやらない限りその先には進めない。

そしていま出来ることは、自身の強みをより強固にすること。

誰でも弱点を克服するより、強みを伸ばすことが最大限に効果を発揮する。

弱点を克服してもそれはやっと人並み。強みは伸ばせば伸ばすほど、より自身の武器になる。

強みは弱みを克服する。

そして自身の強みと思うものは、スピード、闘争心、感覚。

ここを最大限に伸ばしてやりたい。

その時、例えそれが既視感のあるものとしても、「強い」写真として提示できるのではないか。

Model:Natsumi Ibuki

それは自分の一縷の望みとして持っているものだけど、ここを頼りに継続したい。

そしてもし自身の写真に美学があるとするならば、写真として「美しい」ものであること。

どのようなものを写真として撮っても、そこに美しさがあること。

ここが最低限の自分のルール。

勿論、これは今自分が持ち合わせているもので、やがて放棄するときが来るかもしれない。

型を作ってそこを破り、また新たな型を作ってそこを破り続ける。

この果てしない永遠の作業こそ表現の本質のような気がする。

写真の可能性というべきか。

写真を通してそうしてもがく、格闘することも一つの大事な仕事。

その努力を放棄することなく、どこまでも貪欲に写真と向き合いたい。

そのためには何だってやる覚悟。


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