愛する自由について

妻と離婚することになった。結婚していなくても、子どもを僕たちや、この社会のつながりのなかで育てていくことができたらいいし、こまったときはお互いさまの精神で支え合おう。新たにほかの人と恋愛がしたければしてもいいし、かならずしも僕たちは夫婦というかたちを取り続ける必要はないんじゃないか。そういう考え方で意見が一致したのである。

ほんのささいな雑談から、僕がはじめに切り出したことだった。でも、彼女は「気が合うね。私もそう思ってた」と答えた。だから僕たちは離婚することになった。そしてもうすぐ、戸籍上では「他人」同士になる。その、これから「他人」になる彼女への愛の話を、これからしたいと思っている。

僕は1981年東京生まれの36歳。仕事はフリーランスのライターだ。妻と息子の3人で、東京の多摩地域に住んでいる。結婚したのは、東日本大震災があった2011年。その年の春に共通の知人を介して出会い、半年後には入籍していた。付き合い始めの熱量冷めやらぬうちに勢いで入籍した、といってもいいのかもしれない。結婚式は何かと面倒が多そうだったのでやらなかった。

結婚の翌年に息子が誕生した。その息子は、現在5歳になる。今、彼女は都心のIT企業に勤めていて、平日の帰りは終電近くになることも少なくない。仕事が忙しい彼女とスケジュールの折り合いをつけながら、自営業で比較的自由に働いている僕が、家事を主体的に担い、子どもの世話をしていくという生活が、かれこれ4年近く続いている。料理もまともにしたことがなかった僕が、彼女や子どもの食事をつくり、家事をこなして、その合間に自分の仕事を片付ける。この結婚生活を始めたことによって、自分という人間がどんどん変わっていったように思う。

僕と彼女は、家族というチームを運営していくにあたって、いつも「お互いの選択を尊重する」ということでやってきたようなところがある。だから僕が会社勤めをドロップアウトしてフリーランスになったときも、彼女はお金がなかった僕を支えてくれたし、僕も彼女がやりたいと思える仕事に打ち込んでいきたいという「選択」をしたときから、できるかぎりの家事や育児を引き受けるようにもなっていった。そこには男性だから、女性だからというような「役割」はなかった。どうしたらお互いに機嫌のよい状態がつくれるか、それを考えながら適材適所のバランスで動いていくことが、我が家のスタイルになった。

とはいえ実際、そうしたスタイルを築くまでの過程では意見がぶつかりあうこともあったし、自分がやると引き受けた子育てや家事を投げ出したくなるような気持ちになったこともあった。でも、そういう時期を乗り越えて、いつだって機嫌よくありたいと、そうあるためにはどうすればいいかということを考えて、僕たちはやってきた。だから、夫婦の人間関係は、たまに一緒に山登りにいって、汗をかいて、温泉につかって、ビールを飲みながら「ああ、楽しかったねえ。やっぱり山はいいねえ」などと言い合えるくらいには今でも穏やかだし、子どもが多少大きくなってからは、喧嘩をすることもほとんどなくなってきたのである。

ただ、この離婚につながる、唯一に考えるべき問題があるとすれば、それは子どもが生まれてから今日に至るまで、僕と彼女はまったくセックスをしなかったということ。望んでそうしていたというよりは、めまぐるしい日常のなかで気付いたらそうなっていたし、いざあらためてセックスをしようという気持ちにも、お互いになれなかったようなところがあったのだ。それなりに生活は安定し、快適な家も手に入れることができた。ある部分では満たされていたし、恵まれていた。でも何かがどうしても欠けていた。それが、おそらくはこの欲望の問題だったのかもしれない。

結婚をしたらその相手としか基本的には交わってはいけないということになっている。でも、もしその相手とはできなくなった、ということが起こった場合、結婚している夫婦はどうすればいいのか。相手に内緒でこっそり不倫をしようなどということを企んでいたわけではないけれど、いささかこの結婚というシステムには無理があるんじゃないのか? ということを、思わずにはいられない日々が続いていたのだった。

そんなあるとき、僕は『性の進化論』(著・クリストファー・ライアン&カシルダ・ジェダ/原題『Sex at Dawn』)という本に出会った。そこには争いが少なかったとされる1万年以上前の狩猟採集社会の共同体において、人間は乱交によって、その共同体の絆を深めていたということが書かれていた。現代の一夫一妻のようなかたちではなくて、みんなが同時期に、複数の人とセックスをしていた。だからそうして生まれてくる子どもは「みんなの子ども」であり、みんなで子育てをしていたとーー。

乱交? なんていうと、いかがわしい感じがするかもしれない。でもこの本のなかで語られているのはそういうことではなくて、人類学、進化学的視点で、本来的に人はそう生きていたかもしれないし、そういう性のあり方が自然なかたちだったかもしれないよね、ということだったのだ。

それは人口が少なかった狩猟採集社会の共同体だからこそ成立したという考え方もあるだろう。たくさんの人に同時に愛を注ぐなんて、みんながその考え方を共有している必要があるし、それを現代社会で実践していくともなれば、嫉妬の問題をどう解決するのかとか、そもそもモテない人間はどうすればいいのかとか、たくさんの人を愛するなんて結構大変じゃない? なんて、さまざまな疑問が頭をよぎっていくのである。

ただ、そうした言説を自分なりに解釈すればするほど、結婚という一夫一妻の「ルール」のなかで生きることを前提としている「不自由さ」についても、よりはっきりと感じるようになっていったのは事実だ。自分にとって大切にしたい人というのは、必ずしも今、目の前にいる人だけではないかもしれないという「可能性」。すべての男女はその「可能性」に目を向けてもいいのではないかと思ったし、それは人間として決して不自然なことではないのかもしれない、ということも、日毎に考えるようになっていった。その思考を彼女と共有した先に、前述した僕と彼女の意見の一致があったのだ。

僕はこれからも彼女とともに、子どもの成長を見届けていきたいし、彼女の力になれることがあればなりたいとも思っている。それを「愛」と呼ぶならそうかもしれない。そんなものは「愛」じゃなくて、単なる「情」だというならそれもまた正しいのかもしれない。ただひとつ言えることがあるとするなら、それが「愛」であれ「情」であれ、自分自身の「決断」にすべてが委ねられているということだ。自分がそれを「愛」だとすれば、それはきっと「愛」になる。だとすれば、僕たちはこれからの人生で、どれほどの「愛」に出会うことができるのだろう。

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根岸達朗

みんなちがってみんないい

性のあり方や生き方の多様性に関連するnoteをまとめます。個人が考えていることや体験などをふくめ「みんなちがってみんないい」と思えるようなもの。また、それに関するプロジェクトや組織に関わるnoteもあつめていきます。
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コメント12件

もちろん否定するわけでなないけど、
セックスがそんなに大事?と思っちゃうなぁ。
自分も今現にセックスレスだけど、子供と離れることはまったく考えたくない。。
つまるところ結婚という制度を欠陥品のシステムのようにとらえて自分たちをその被害者のように語るけど、結局はただ愛しあえてなかっただけ。きっとなんとなく一緒になったのでしょう。それをなんとなく達観した村上春樹風に語られてもまったくシンパシーは感じられない。
自分の性欲なんて二の次三の次。まずは子供のことを考えてあげてほしかった。
そして、こういうプライバシーを晒すポストをしてる以上、わたしのような辛辣にきっと感じる意見をぶつけられることにも覚悟されていると信じたい。
子どもは、特に乳幼児期には愛着をきちんと形成できる環境が必要なのは間違いないでしょう。でも、それが必ずしも夫婦という形でなければ保障されないということはない。他人同士になってから素直に笑いあえ、話し合え、楽しく過ごせるなら、子どもにとってはそのほうがよいこともあると思います。
男女の愛とは何か?(同性でも同じでしょうけど)特定の誰かと、どこまで互いの深いところを分かり合え、響きあえるのか。そういう愛と、子育てにおける愛を一つの枠に収める婚姻制度。
子どもはいつか巣立ち、最後に残るのは男と女。どんな関係でいるのか、どんな関係を作るのか。情でつながる友人なのか、性愛含めた愛でつながる恋人同士なのか。性欲と、愛。この問いを、安定を捨てて追求していく人を、素敵だなと思います。
結婚を考えて思うのは、本人同士だけの意思だけではうまくいかない。双方の親などとの、調整が不可欠。勿論、基本は、本人の愛が大切、しかし、年月とともに心は変化する。それにどう対応するか、がポイントではないか。
「愛」というものに対しここまで苦悩されるのであれば、それを追及するのも面白いと思います。私は数度離婚し今は独りで、自分は配偶者ではなく「恋人」という生き物だと看破し、結婚同棲からは一切手を引きました。決めて生きることにしたのです。ごく若いうちからなんとなくそれを知っていて子供は絶対に持ちませんでした。傷つけるのは所有しあいたがるから。そこに子がいたら?被害者を生むだけ。男も女も子供も、人は他の誰かの所有物ではない。かつての結婚相手達も恋人たちも私も「そばにいてよ永遠にいてよ抱いてよいなくならないでよ」。でもどうやらそうではない。人は死にます。最初の夫は早くに事故死しましたが、それから考え続けてきました。
ほがらかに楽しく、深く優しく、体も心も愛し合う。制度は制度としてそれぞれの人々が考えてほしい。真の愛を。
魂を、肉体を、心地よいその人の宇宙に遊ばせてあげて、その宇宙ごと愛でること。いつも無事と幸運を祈ること。存在してくれるだけでうれしいと幸福に感じること。現時点の私の愛は、そんな感じです。
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