鬼才・馬淵薫の生涯

 戦前の共産党は過激で危険な集団だった。何故かというと、彼らは皆、全世界規模での共産主義革命を目指していたからだ。つまり、戦前の大日本帝国においては、共産主義者というだけで危険人物だったわけだ。このあたり、戦後の、いや現在の日本共産党とは事情が大きく違う。
 1917年大正6年のロシア革命成立以降、政府は共産主義思想の流布を恐れていたので、戦前の共産主義者は度重なる弾圧を受けた。
馬渕薫が生まれ育ったのは、そんな時代だった。
明治44年に生まれた馬渕は、関西大学に進学するが、昭和5年に共産党員として検挙され入獄した経験があるという。
 関西大学の年史編纂室HPによると、昭和5年の6月に紛争が起きたとある。馬渕はこの紛争に関わっていたのではないか?
 その直前の5月には川崎で「武装メーデー事件」が起きている。田中清玄委員長に率いられた「武装共産党」が、メーデーに乗じたテロを計画し、これを察知した警察に本部を急襲され、発砲により警察側に怪我人を出したのだ。
 何しろ、天皇制反対を叫べば死刑になるかもしれない時代である。それでも、高邁な理想を掲げ、共産主義へと向かう若者は多かった。当然のことながら、官憲の弾圧は激しくなる。
 関西大学での紛争が、どの程度の規模だったかはわからない。ただ、馬渕が大学を中退したのは、この時の紛争による逮捕が原因ではないか。馬渕はまだ19歳だった。
 大学中退後の足取りは定かではないが、昭和9年の時点では大阪で唯一の新劇団体、大阪協同劇団に参加していたらしい。同劇団には、後に東宝で大プロデュサーとなりゴジラを生み出す田中友幸もいた。学生演劇に熱中していた田中は、昭和10年の卒業と同時に協同劇団に飛び込み、演出助手として裏方仕事をやっていたという。
 田中は明治43年4月生まれ、馬渕とは同学年だ。しかも、田中は関西大学経済学部の出身である。馬渕の在学中から、二人の間に交流があった可能性はある。ちなみに馬渕はこの頃、数篇のラジオドラマを発表していたという。創作への志向は、若い頃からあったのだ。
 大阪協同劇団で、同じ釜の飯を食った馬渕と田中だったが、昭和14年に田中が教育招集で入隊する。田中は、中隊で馬に蹴られ、たった半年で除隊するが、協同劇団に戻った彼を、大きな事件が舞っていた。
翌15年8月、各地の新劇団体に対する大規模な弾圧が行われ、合計80名が逮捕者されたのである。その中には馬渕薫の名前もあった。劇団は強制的に解散させられ、馬渕は再び獄中生活を送ることになった。
馬渕とは親友だったという田中友幸が、共産主義についてどう考えていたのかはわからないが、田中の父親は帝国陸軍中佐である。田中が左傾化したとすれば家族から大反対されただろうし、後に彼が残した作品を省みても、左翼思想的な要素は感じられない。
対して、馬淵は大阪の瀬戸物屋の息子だったという。商家に生まれ、今よりも進学率が遥かに低い時代に大学に進学した彼が左翼思想に染まるのは、当時の状況を考えると不思議ではない。ただ、思想的な背景は別にして、彼らの友情は晩年まで続き、映画史に大きな足跡を残すのだ。
大弾圧の後、協同劇団にいた面々がどうなったのかはよくわからないが、関係者は戦後も演劇活動を続けた。その頃には、東京に移って脚本家をはじめていた馬渕も、関西の演劇界とは関わり続けていたようだ。戦後、売り出し中の舞台俳優で「東の仲代、西の筒井」と呼ばれていた若き日の筒井康隆とも交友があった。
ともあれ、昭和15年といえば日中戦争の最中、翌年の暮には真珠湾攻撃があり、そのまま太平洋戦争に突入する。誰も彼もが生きるだけで精一杯の時代だった。
協同劇団の解散後、映画に憧れを持っていた田中は映画業界に進路を定め、大阪にできた大宝映画に入社する。ところがこの会社はわずか半年しかもたず、東宝に吸収合併されてしまう。東宝京都撮影所に移った田中は、そこからプロデューサーへの道を歩みはじめた。
 そして太平洋戦争が始まる。昭和17年、田中に召集令状が来たが、幸いにも補充要員だったので、ひと月ほどで内地へ戻ってこれた。終戦を間近に控えた、昭和20年の5月公開の『日本剣豪伝』で田中はプロデューサーになった。監督は滝沢英輔、脚本は三村伸太郎、主演は大河内伝次郎と、戦時下とはいえ豪華な顔ぶれだ。幸先の良いスタートをきった田中は、東宝内での足場をかためてゆく。
 この間、馬渕がどこで何をしていたかはよくわからない。獄中にいた可能性もあるだろう。盟友、田中との交流も、この時期は途絶えていたと思われる。確かなのは、共産党員としての活動を続けていたことだ。
 終戦後、半ば崩壊状態だった日本共産党が合法的に復活する。獄中にいた幹部たちも釈放された。戦前・戦中のことを考えると夢のような話だが、国会での議席も獲得する。この時期、馬渕は大阪地区オルグとして動いていた。
 だが、終戦から5年後、馬渕は日本共産党を離島する。
 何があったのかはわからない。真実は本人しか知らないし、調べようもない。
 あれほど入れ込んでいた日本共産党を辞めた昭和30年=1950年、共産党内部では50年問題と呼ばれる事件が起きている。詳しく説明する余裕はないが、朝鮮戦争や冷戦などの影響で、共産党内部に亀裂が走り、複数の派閥に内部分裂してしまったのだ。
 日本共産党に己の青春を賭けてきた馬渕が、等の分裂にどんな思いを抱いたのかはわからない。深い絶望や諦念があったのかもしれない。
 ただ、彼は行動した。戦前から深く関わってきた共産党を離れた翌年、馬渕は東京へ向かう。
 昭和31年、馬渕は、戦前から活躍する脚本家、八住利雄に弟子入りする。馬渕を八住に引きあわせたのは、かつての盟友田中友幸だったようだ。そういえば、八住も大阪出身、早稲田の露文で当時最先端のロシア演劇を研究した後、築地小劇場で新劇にも関わっている。八住の元でシナリオ作法を学んだ馬渕は、昭和28年『赤線基地』で脚本家デビューする。プロデューサーはもちろん田中である。この時、馬渕は木村武というペンネームを使った。本名より地味な名前だ。当時はまだ、共産党員としての馬渕の活動を知る人も多かった。それもあって、あまり目立たない名前にしたのではないか。
 そこからの活躍には目覚ましいものがあり、3年後には年間数本の脚本を発表する売れっ子になっている。昭和31年には『ゴジラ』を書いた村田武雄と共同で『空の大怪獣ラドン』を執筆。稲垣浩の『柳生武芸帳』や、ご存知本多猪四郎の『地球防衛軍』と、次々に大作を任されている。馬渕より年は若いが、先にデビューしていた関沢新一と並んで、東宝特撮のメインライターとして獅子奮迅の活躍をした。明るいタッチの関沢と違い、馬渕の脚本はどこか暗く、悲しい物が多い。馬渕脚本の本質は、怪奇とメロドラマだ。
 その個性がフルに発揮された傑作が『ガス人間第一号』だろう。科学の力でガス人間にされた異形の者の悲しみと、愛する者にすべてを捧げようとするその姿は、後期の谷崎潤一郎作品にすら匹敵する、屈折した濃厚な純愛悲劇だ。
 脚本家を始めて10年が過ぎた頃、馬渕は木村武というペンネームを捨て、馬淵薫名義で作品を発表するようになる。その、記念スべき第1作目が『フランケンシュタイン対地底怪獣』だ。続編の『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』と合わせて、昭和特撮の最高峰と呼ばれる傑作である。この2本で馬渕が描いたのは、やはり異形の者のメロドラマだった。怪獣映画として、娯楽映画として、申し分のない映画でありつつ、泣ける映画としてフランケンシュタインの怪物に感情移入してしまう。映画史的に見ても、かなり奇妙で、かつ重要なポジションの作品だ。他にも『妖星ゴラス』や『マタンゴ』といった、怪しげで魅力的な作品を書いた馬渕の資質は、日本映画というよりも、80年代の海外ホラーの作家たち、デビッド・クローネンバーグやトビー・フーパーに近いものがある。ともすれば、私小説にでもなりそうな暗いテーマを抱えながら、昭和の娯楽映画に昇華したセンスには脱帽するしかない。
 そんな馬渕の、最後の脚本作は『ゴジラ対ヘドラ』。またしても、呪われた異形の生命体の物語であり、当時の観客たる小学生たちに、とんでもないインパクトを与えた。
 29本の映画と、数本のテレビドラマを残した馬渕だが、そのほとんどは田中との仕事で、田中以外のプロデューサーと組んだ仕事は数えるほどしかない。木村武=馬淵薫は、東宝の脚本家というよりも、田中友幸の脚本家だった。
 昭和62年、癌により馬渕はこの世を去る。
 木村名義で仕事を始め、後年は馬淵薫名義に変えたが、高尾にある彼の墓石には「馬渕家之墓」と彫られている。もしかしたら「馬淵」もまた、木村とは別の仮の名前だったのかもしれない。馬渕薫が心の中に何を抱えていたのか、それは誰にもわからない。

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