労組が生んだ大傑作『太陽の王子ホルスの大冒険』

 まずは『太陽の王子ホルスの大冒険」が作られた時代背景から考えてみたい。制作が始まったのは1965年、公開されたのは1968年、大作とはいえ、日本のアニメで3年もかけるのは異例のことである。1965年といえば、世界史ではアメリカがベトナム戦争に直接介入し始めた年として、世界史に記憶されている。1968年にはフランスで5月革命が起き、チェコスロバキアではプラハの春と呼ばれる変革運動があり、アメリカでは黒人解放運動のリーダーだったマーチン・ルーサー・キング牧師が暗殺されている。一方、ベトナム戦争は激化していた。
 そんな時代の作品である。『ホルス」に先立つこと3年前の1962年、大塚康生は東映動画労働組合の2代目書記長に選ばれた。この時の副委員長が高畑勲。大勢の人間が幾つかのグループに分かれて制作する長編アニメの現場において、労働組合の結成は必然的なものだったとも言える。
 大塚は「作画汗まみれ」の中で、組合結成を境に「これまではそちらかというと、演出部、動画部の中だけで行われていた作品の方向づけやあり方を、ほかのパートの人たちといっしょに議論できるようになったのです」と書いている。大塚が書記長になった翌年、宮崎駿が入社してくる。 
 つまり、宮崎がアニメ業界に入った時点で、作品の方向性を皆で話し合うという態勢ができていたわけだ。宮崎自身、組合活動には熱心で、宮崎が書記長、高畑が副委員長という時期もあった。
 そして同時に、TVアニメが盛んになり始めていた頃でもあり、東映動画は制作体制の大きな変更を余儀なくされていた。人事に関わることだから、必然的に労働組合の活動も盛んになる。
 そのような時代背景の中で、そういう人たちが3年かけて作ったアニメ、それが『太陽の王子ホルスの大冒険』なのだ。
 彼らはしょっちゅう顔を突き合わせて話し合った。そこで交わされた会話は、それこそ多岐にわたっただろう。組合の話だけではなく、進行中の作品の話だけでもなく、自分たちが感動を受けたアニメや、自分たちが作りたいと思う作品についても、熱く、深く、語り合っていたわけだ。
『ホルス』の中には、当時の彼らが抱え込んでいた様々な問題意識が濁流のように流れ込んでいる。共に力を合わせる人々の姿は、共に作品創りをした仲間たちが投影されているかも知れない。だが、共に戦うはずの仲間たちですら、場合によっては石を投げてくるのだ。実際、ホルスは信じていたヒルダに裏切られるという、痛い経験をする。だがしかし、ヒルダにはヒルダなりの理由があって…という形で、裏切り者を単純な悪と決めつけられないような側面も出てくる。
 本作品は、そのような状況の中で、何を信じて戦うべきか、という青年の意志についての物語である。
 結果的に、東映動画がそれまで作ってきた作品よりも、深刻な場面が多くなり、当時の観客層である子供にはわかりにくかったのか、興行的には失敗作となってしまう。だがしかし『ホルス』の20年後、30年後には、深刻な問題を抱えた主人公が決断を迫られ、苦悩するといったアニメがいくつも作られ大ヒットするのだ。『新世紀エヴァンゲリオン』の出現は『ホルス』の制作が始まってちょうど30年後、ご存知のようにその作り手は庵野秀明、『風の谷のナウシカ』にも参加した宮崎駿の門下生だ。彼の作品は世紀末の日本に衝撃を与え、それは今も新作劇場版で続いている。
 つまり『ホルス』の作り手たちは、先駆者だったのだ。
 『ホルス』がなぜ、そういうストーリーになったのかというと、作り手たちがとことんまで話し合ってシナリオを作ったからだ。
 原作はアイヌの叙事詩をベースにした深沢一夫の人形劇『春楡の上に太陽』だった。深沢が書いた脚本をコピーしてスタッフが回し読みし、意見を出し合う。それを深沢に投げ返し、深沢は彼らの意見を取り入れて新たな修正原稿を書く。こういう作業を何度も繰り返して、シナリオを煮詰めていった。高畑は完璧主義者なので、自分が本当に納得できるまで、何度でも何度でも繰り返す。
 大塚によれば、この作業の中で、宮崎駿の存在が浮上してきたという。大塚を筆頭に、関わったすべてのスタッフの意見を取り入れながら『ホルス』の物語を今ある形に落とし込んだのは、高畑と宮崎の話し合いだった。組合活動においても深い関係にあった高畑と宮崎だが、彼らには共通の話題があった。それは海外のアニメである。この時代のアニメーターは皆、技術的に優れた海外の作品を貪欲に吸収しようとしていた。
 1955年にフランスのアニメーション作家ポール・グリモーの『やぶにらみの暴君』が日本で公開されている。当時まだ学生だった高畑勲をこの作品に驚嘆し、心を奪われたという。実際『やぶにらみの暴君』はその表現力、芸術性の高さで、発表当時から高い評価を受けていた。何度も映画館に通い、メモを取ったという高畑の、この作品に対する思いは『漫画映画の志』という著作に詳しく書かれている。この作品には大塚康生も大変な衝撃を受けていた。そして、彼らより年下の宮崎駿もだ。彼らは、東映動画で出会う前に『やぶにらみの暴君』に打ちのめされていたのだ。
 そしてもう1本、重要な作品が1960年にNHKで放映された。ソ連のアタマーノフによる『雪の女王』だ。東映動画の労働組合は、こういった作品の自主上映会を行なっており、宮崎はそこで『雪の女王』と遭遇したという。ネットのなかった時代、情報に飢えていたアニメファンは、サークル・同好会的な交流でガリ版刷の同人誌を出したりして交流していた。そこではプロアマの垣根はなく、ファン活動からプロのアニメーターになる者もいた。東映動画の労組も、そういった流れの中にある。大塚も高畑も宮崎も、職人として東映動画に就職したわけだが、現場ではそれこそ学生の部活動のように好きなアニメについて語り合っていたようだ。当然のことながら『やぶにらみの暴君』や『雪の女王』の話になる。ディズニー作品が世界最高峰のアニメとしてある中、フランスやソ連で、それに負けない作品が作られている。
 それでは、我々の作るべきアニメとはどんな作品だろう?理想のアニメとは?こんな会話の延長線上で『ホルス』のシナリオは練られた。
 当然のことながら『ホルス』には『やぶにらみの暴君』や『雪の女王』の影響が深く刻印されている。ビジュアルだけで見ても、『ホルス』の悪魔グルングルドの外見は雪の女王によく似ているし、グルングルドの手下の狼が氷となって襲ってくる描写は、雪の女王の寒波による攻撃から影響を受けている。逐一書きだすとキリがないので、その辺のことは自分の目で確認してほしい。
『やぶにらみの暴君』はグリモー自身の意志で改作されたものが『王と鳥』というタイトルでジブリのレーベルから発売されている。
 宮崎らがグリモーらから受けた影響は、形を変えて後の作品にも残っている。宮崎作品の自由自在な空間設計は、若き日に見た海外の作品から貪欲に吸収したものを昇華した結果なのだ。
 高畑や宮崎が理想のアニメを追求した結果、『ホルス』の制作には大変な時間がかかり、製作費も上積みされてゆく。
 この企画がスタートした背景には、労組の活動が盛んになってゆく状況の中、その中心人物である大塚を作画監督に、同じく組合の重要人物である高畑と共に、組合員がリードする形での作品作りを試みる、という会社側の意図もあったようだ。実際、大塚も高畑も力を入れ、作品のレベルは上がったが、当初予定していた製作費を大幅に上回ることになってしまい、会社側は頭を抱えてしまう。『ホルス』の制作は一旦中断が言い渡され、スタッフは他の作品に回された。その間、大塚と高畑は二人でコンテを作っていたという。制作に3年もかかったのは、そんな理由があったからだ。狼の襲撃シーンなどで、止め絵が使われているのも、時間を節減するための苦肉の策だ。
 完成した作品の評価は高かったものの、興行成績は悪く『ホルス』に関わったスタッフの多くが、東映動画を去ることになる。 『太陽の王子ホルスの大冒険』は、そんな時代が作り上げた唯一無二の作品だ。この作品が持つ意義は、宮崎や高畑の後の活動が証明している。

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