能「皇帝」に思うこと その12
亡父の言葉
父でもあり、師匠でもあった故・宇髙通成(うだかみちしげ)は2020年3月28日に実に1年半に及ぶ闘病生活の末、静かに息を引き取った。
その2020年の1月に亡父・通成と私はそれぞれ賞を受賞した。亡父は法政大学より催花賞を、私は京都市から芸術新人賞を頂いた。私が知る限りではこれが父の最初で最後の受賞歴である。授賞式は東京で行われたが、父の代わりに私が式に出席し、父の挨拶文を代読した。その挨拶文は次の通りである。
亡父は幼い頃から能のお稽古を始め、中学生の頃から金剛御宗家の書生として10年の修行期間を経て、金剛流の能楽師となった。また、英語を話す事ができ、国際能楽研究会を立ち上げ、数多くの海外との接点を持ち、外国人のプロの能楽師も養成した。その一方で、能面を自ら制作し、自分の舞台に使用する事を常としてきた。我が父ながら能楽界でも珍しい人物だったと思う。
しかしながら、亡父の能に対する情熱は最後まで純粋で感覚的なものであった。一見、器用に見えるがとても愚直な性格で、なんでも正面からぶつかっていった人だった。その感性が語る“能の能たる所以”こそが、今私が興味を持っているテーマに他ならない。この事を亡父と話し合う事ができたら、と何度も思う。
見えないものを見る
現代社会に於いて「見えない」という事にはマイナスのイメージがある。もっと透明性のある、そして理解のできるものが好まれる昨今では、世界が狭く見えたり却って息苦しさを感じる事さえある。でもそれはある意味で、自ら線を引いたに過ぎず、いまだに世界は広く、謎に満ち溢れている。今だって暗闇の世界はあるし、人間が何故生まれて、なぜ死んでいくのか、この世界はなんの為にあるのかなんて誰にもわからないのだ。
これからはむしろ、あえてハッキリさせない事で、そこに可能性を見出したり、言葉や知識を超えた、経験や感覚のようなものの良さが再認識される事になると思う。そこには昔から伝わる禅の思想や日本文化に培われた”間”や”余白”などの捉え方が生きてくる。一周回ってむしろ新しく見えてくるものだ。
つづく
第八回竜成の会「皇帝」ー流行病と蝋燭ー
令和5年5月28日(日)14時開演
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