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能「皇帝」に思うこと その12

亡父の言葉

父でもあり、師匠でもあった故・宇髙通成(うだかみちしげ)は2020年3月28日に実に1年半に及ぶ闘病生活の末、静かに息を引き取った。

その2020年の1月に亡父・通成と私はそれぞれ賞を受賞した。亡父は法政大学より催花賞を、私は京都市から芸術新人賞を頂いた。私が知る限りではこれが父の最初で最後の受賞歴である。授賞式は東京で行われたが、父の代わりに私が式に出席し、父の挨拶文を代読した。その挨拶文は次の通りである。

 この度は大変名誉ある催花賞を頂き、ご関係の皆様に厚く御礼を申し上げます。
また本日参加が叶いませぬ事と長男・竜成に挨拶させます事をご了承下さい。

能の国際化の中で思いますのは、外国人の視点は、能の霊的なストーリー性にあり、一般には観る事が出来ない霊的体験を仮面劇として演じる事に興味があると考えています。

旅の僧に代表されるワキの前に現れるシテは、神や仏のほか、人間以外の桜・杜若や鵺・鬼といったものを主人公として登場させますが、最も多く現れるのが浮かばれない死者の亡霊たちで、あの世から今世に訴え事を語り、怨念の舞を舞うのです。

その隠されたシテの心情を怪しく引き出す事は、言わば時空間の扇を広げる事に外なりません。ワキは構成上の扇の要であり、より怪しく広げられた物語を展開してゆくのです。その世界の彩りを深めるのは地謡と囃子で、その時空間で夢・現・幽玄の舞を舞うのがシテの役目であります。

昨今はワキの目や心を通して観るという暗黙のルールが失われ、能面・装束の美に眼をとられ、はたまた演者の技術性、舞台性に心を奪われているようです。

しかし能の作者・世阿弥は夢幻復式能の中に、深い人間の心の洞察を加え、闇にうごめく魂の叫びの中に生と死を自由に行き来する魂のドラマを描くのです。

この形式の能が能の能たる所以であり、これから国際的に評価されるポイントであります。そして過去世から現世・来世へと繋がる三つの世界を仮面を着けて舞う、この様な仮面劇は世界に例を見ないからです。

 長くなりましたが、これから能の魅力を世界に広めて行きたいと考えております。本日は有り難うございました。

亡父・宇髙通成による催花賞受賞の挨拶文

亡父は幼い頃から能のお稽古を始め、中学生の頃から金剛御宗家の書生として10年の修行期間を経て、金剛流の能楽師となった。また、英語を話す事ができ、国際能楽研究会を立ち上げ、数多くの海外との接点を持ち、外国人のプロの能楽師も養成した。その一方で、能面を自ら制作し、自分の舞台に使用する事を常としてきた。我が父ながら能楽界でも珍しい人物だったと思う。

しかしながら、亡父の能に対する情熱は最後まで純粋で感覚的なものであった。一見、器用に見えるがとても愚直な性格で、なんでも正面からぶつかっていった人だった。その感性が語る“能の能たる所以”こそが、今私が興味を持っているテーマに他ならない。この事を亡父と話し合う事ができたら、と何度も思う。

第三回竜成の会「石橋 狻猊之式」より 鏡の間にて亡父・宇髙通成

見えないものを見る

現代社会に於いて「見えない」という事にはマイナスのイメージがある。もっと透明性のある、そして理解のできるものが好まれる昨今では、世界が狭く見えたり却って息苦しさを感じる事さえある。でもそれはある意味で、自ら線を引いたに過ぎず、いまだに世界は広く、謎に満ち溢れている。今だって暗闇の世界はあるし、人間が何故生まれて、なぜ死んでいくのか、この世界はなんの為にあるのかなんて誰にもわからないのだ。

これからはむしろ、あえてハッキリさせない事で、そこに可能性を見出したり、言葉や知識を超えた、経験や感覚のようなものの良さが再認識される事になると思う。そこには昔から伝わる禅の思想や日本文化に培われた”間”や”余白”などの捉え方が生きてくる。一周回ってむしろ新しく見えてくるものだ。

つづく

第八回竜成の会「皇帝」ー流行病と蝋燭ー

令和5年5月28日(日)14時開演

絶賛発売中!
チケットはこちら
https://teket.jp/1133/20033




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