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写真を撮る意味にこだわる

Midnight Diary #24

なんとなく小難しい事を考えるのが好きなので、今日もいつも通り何かしらを考えているのだが、そういえば数年程前に写真を撮る意味について語り合ったことがありその思い出がなんとなく記憶に残っているので、今日はその事について改めて考えてみる。

「写真を撮る意味とは」
それを聞かれたときの答えは決まっている。
僕が生きた証。そこで僕が撮ったという記録。
いつもそう答えていた。
とっても勝手な理屈だが、昔、当時の奥さんのモラハラが酷くて本気で死ぬことを考えていた時期があった。
そんな僕だからこそ説得力のある意味なのではないかと思っている。

意味がない事と意味がある事の違いはやはり行動に現れる。
意味を作ったり、それを認識しているとどうしてもその意味に沿った行動を取らなければいけなくなる。
しかし、それでは窮屈だと感じる人もいることだろう。
また、乗る船がひとつしか無いというのはとても不安なことだ。
僕も昔は「意味は無い」と言っていた。
そして、そいう考えに至った経緯はもっと自分の心に近い部分にあった。
やはり何かしらの意味を作ってしまうと、受け入れられなかったときや認められなかった時につらい思いをする。
今も昔もさほど変わっていないが、同じような写真をアップしても、やっぱりフォロワーが多い人のほうが称賛されるし、同じような言葉でも同様のことが起きる。中にはパクリだとか影響されていると言う人もいてよく傷ついた。
まぁ結局は自分を守るためだ。
そうやって無関心になることが大人になることだと思い込んでいる時期もあった。

「でもそれだとさみしいじゃないか」って思うようになったのは最近のこと。
離婚がきっかけだったように思う。
別居が1年、離婚調停が1年。
かなり大変な時期だった。
あと何年生きられるかわからないが、この命。
安いものではない。
毎月、養育費と言う名の命のサブスクを契約している。
払い終えるまでには数千万円になるだろう。
そう考えると、あと十数年分の命を数千万円で買っていると言っても良い。
それならもう少し意味にこだわって生きてもいいんじゃないか。
そうやって写真を撮ってもいいんじゃないかって思うようになった。

まぁそれでもあってないような意味だが、ある意味、死線を潜ってきた自分には、生きる事にこだわって何かをするってのはなんか大切なことなんじゃないかって思っている。
「写真を撮る意味≒生きる意味」なのかもしれない。
と、ふと今思ったのだが、まぁそんなおしゃれなもんでもないか。
こういった言葉を言うときは十分注意が必要だ。

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