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1989年、プロフェッサーと呼ばれたアラン・プロストの3度目のワールドチャンピオン

おはようございます。久しぶりにモータースポーツに関する内容を、今回は更新していこうかと。

1980年〜1993年(1992年不参戦)、F1の世界で戦い、4度のワールドチャンピオンに輝いたアラン・プロストの1989年だけに絞って、お伝えします。


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セナとの確執が決定的となった第2戦サンマリノ

前年となる1988年、自身初のワールドチャンピオンに輝いたアイルトン・セナとコンビが継続となった1989年の第2戦サンマリノで、フェラーリのベルガーの大クラッシュでレース中断後の再スタート、セナとプロストの間では

『スタート直後、最初のコーナーを抜けるまではお互いに勝負しない』

という紳士協定が結ばれていました。

スタートで先行したのはプロストだったのだが、最初のコーナーが『タンブレロ』なのか『トサ』なのかで、解釈で齟齬が生じてしまい、セナがトサコーナーでプロストを抜いてトップになる。(1回目のスタートでは、セナが先行したため、問題はなかった)

紳士協定に反故したプロストは、怒り3位までの入賞者に義務づけられている記者会見をボイコット。後日に罰金が課せられた。


マクラーレン離脱

この年のフランスグランプリを前に、会見でプロストはマクラーレンを離脱することを発表。1984年から継続したチームを離れる事に。当時のチーム代表だったロン・デニスは、紳士協定の内容の事は知らず、三者会談で、ドライバーの内容を抗弁し、ロンは渋々と謝罪し、一旦和解したものの、説得に応じることはなく、発表。この時点では来シーズンはどうなるかわかりませんでした。




フェラーリへ移籍

イタリアグランプリにて、プロストがフェラーリに移籍する事が正式に発表され、1990年チームメイトとなるマンセルと一緒に、フェラーリのファン(ティフォシ)に手を振りながら挨拶。


このレースで優勝したプロストは、トロフィーを地元ファンに投げ与えてしまったことや、待遇差別発言などで、チーム代表のデニスやホンダは不快感など怒りが頂点に達し、プロストへのエンジン供給停止を通告。後に、プロストはトロフィーをレプリカとして弁償し謝罪した。



そして日本グランプリで


第15戦の日本グランプリで、トップ争いした2人は最終コーナー前のシケインでイン側に寄せて抜こうとしたセナと、アウトからアプローチしたプロストが接触し、両者ストップ。
プロストはその場で、マシンを降りリタイア。しかしセナはコースマーシャルに押してもらい続行。セナのフロントウイングは破損し交換、その後も続けトップでチェッカーを受けた。


3度目のワールドチャンピオン(暫定)

日本グランプリでのセナの裁定は『失格』。当初の理由は『シケイン不通過』、セナの止まった位置が危険な場所にあったためコースマーシャルが押しがけしたことをOKだったが、本コースを通らなかった事で失格にしたが、これに対して『シケインを通過できなかったとき、Uターンさせるのは危険』などの抗議があった事やチームの代表のロン・デニスも、過去にも、シケイン不通過による失格にならなかった事例を上げ反論したため、結果的には何が本当の失格理由なのかはわからない。

『シケイン不通過』なのか『押しがけ』なのか?


なお、この一件は10月末までに裁定を下すため、プロストの3度目のワールドチャンピオンおよびベネトンから参戦のアレッサンドロ・ナニーニの優勝は暫定としていた。





プロスト、マクラーレンでの最後のレース

アデレード市街地にて開催されるオーストラリアグランプリは11月の上旬、日本で開催されたシケインでの問題は、セナの失格が確定。理由は、シケイン不通過ではなく『押しがけ』ということ。これに伴いセナには10万ドルの罰金と執行猶予つき6ヶ月の出場停止を言い渡した。これに対しチーム代表のロン・デニスは民事訴訟も起こすことも示唆する中で最終戦を迎えた。

しかし最終戦は当時の決勝だが、豪雨に見舞われスタート開始を30分遅れて開始する事になった。しかしマシンの中に収まらないドライバーも多く、コンディションが危険すぎると要望した。しかしレースはスタートをするとプロストは、わずか1周で自主的にリタイア。

この段階では後方のマシンが正規のグリッドについていないにもかかわらず、スタートをさせてしまった。スタートしてから、約1/3のマシンがスピンすることも。プロストのリタイア理由は、このような危険に状態でレースを強制的に開始させたことへの抗議みたいなものだった。





3度目のワールドチャンピオン確定

そして2度目のスタートはプロストのみ棄権で開始となったが豪雨がおさまるわけもなくスタート。セナはとりあえずこのレースで優勝し、あとの裁定がどう下ろうとワールドチャンピオンにはなれないと思い、懸命に走らせたものの、セナは他車に追突をしリタイア。結果、裁定を待つことなくアラン・プロストの3度目ワールドチャンピオンは確定になった。しかし、この年は人間関係による問題などと後味の悪い事も多かったシーズンだった。


アラン・プロストの1989年の結果

開幕戦 ブラジル🇧🇷 2位

第2戦 サンマリノ🇸🇲 2位

第3戦 モナコ🇲🇨 2位

第4戦 メキシコ🇲🇽 5位

第5戦 アメリカ🇺🇸 優勝

第6戦 カナダ🇨🇦 リタイア

第7戦 フランス🇫🇷 優勝

第8戦 イギリス🇬🇧 優勝

第9戦 ドイツ🇩🇪 2位

第10戦 ハンガリー🇭🇺 4位

第11戦 ベルギー🇧🇪 2位

第12戦 イタリア🇮🇹 優勝

第13戦 ポルトガル🇵🇹 2位

第14戦 スペイン🇪🇸 3位

第15戦 日本🇯🇵 リタイア

第16戦 オーストラリア🇦🇺 リタイア

ポイント76(81) ()内は、全戦ポイント獲得の時の点数



当時は優勝が9ポイント、2位が6ポイント、3位が4ポイントで6位まで入賞。さらに、年間16戦のうち11戦が有効の有効ポイント制であった。この年の優勝こそ4回だけだったが、勝てないレースでも確実にポイントを獲得していく強かさはあり、入賞は13回と取りこぼしがほぼなく確実に進んでいったシーズンだったのでした。



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