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「意味を手放すこと」で得られてしまう意味がある:遊び的であること

最近「遊び論」が面白いと思って色々と文献を読みあさりながら考えを深めています。「遊び」はぼくの中で実はずっと気になっていたキーワードのひとつです。

遊ぶようにして人生を過ごせたらと個人的に思いますし、最近どうも世の中息苦しいかんじがあり、そこを打破する意味でも遊びという視点は大事になってくるのかなと思っています。

たぶん「遊び」の面白いところは、ある種の「無意味性」なんだと思っています。遊ぶことに意味なんてありません。でも意味がないからこそ、なんだか面白かったりして、結果的に自分にとっての意味らしきものが生まれてきてしまうという側面があるように思います。

そういう無意味性が遊びの特徴である一方、いまの時代「意味」の重要性というのは本来的には高まっているとは思うんです。

「これってなんのためにやるの?」

みたいな意味や目的が喪失している。だから「意味」を持っている人は強いという発想はあります。

でも、その「意味がないと動けない」というのは実は弱いと思うんです。

「意味がない、もしくは意味が見いだせないのに、最高に楽しんでしまう」

そしたら結果的に「意味のようなものが生まれてきてしまう」というのはやっぱり強い気がするんです。

意味が喪失されつつある時代で、目の前の意味を求めずに、無意味さの中に没入できてしまうこと。その結果として意味が生成されてしまうこと。

そんなことがいまこの時代で「遊び」というキーワードが注目される背景なのかなとつらつらと考えてます。

※noteではアカデミックさやロジカルな厳密さは抜きで、考えていることを散文的に書こうと思います

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