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はじめの一歩

友人のススメではじめたnote。
このツールが何なのか未だ半分も理解できていないが、とりあえず好きなことを綴ってゆこうと思う。

どうやらブログとも違うみたいだ。

黎明期からネットの世界にいるはずなのに、知らない事が多過ぎる。
まるでビックバンのように僕の知らないところで物凄い勢いでネットの世界は広がり、昔は「こんなのもある」くらいの感覚だったのが、今では生活に欠かせないものになっている。

そんな当たり前となったネットの世界に初めて出会ったのは小学3年生の頃だった。

我が家に初めてやってきたパソコンは、今見れば前世紀の形状であるが、当時は最先端。韓国製だったのでマウスの裏にハングル文字が書かれており、当時極めて狭い世界に住んでいた僕としては、「舶来品」と呼べる代物であった。

電話回線を利用するゆえに、秒ごとに料金が加算される、固定電話が使えなくなる等の理由から一日に許された利用時間は30分。それも週に一回であった。

そこでのめり込んだのは「大富豪」のオンライン対戦。

日本全国の人たちとチャットするのが楽しみだった。チャットで年齢を言うと「若っ」と言われるのが快感で何度も投稿した。これはよく酒場で見かける「幾つに見えます?」発言と似たようなものである。

すっかりネットの世界に浸かった僕の関心事は大富豪では収まらなかった。

時は流れ、中学校一年生の夏。新聞記者である父の転勤により、家族でタイのバンコクへ移住した。

異国の地に引っ越したばかりの僕は友達は一人もいない。ギターすら始めていない、暇を持て余した多感な中坊に与えられた唯一の娯楽はネットであった。

当時の世界情勢は9.11の影響で悪化の一途を辿り、バンコクに赴任したばかりの父はすぐにパキスタン、イスラマバードへと向かった。

そんな世界が固唾を飲んで見守る最前線で父が孤軍奮闘している中、暇を持て余した僕はついに禁断のエロサイトへと手を伸ばしてしまった。

一通りの関心事を調べて満足した僕はパソコンを閉じた。それが悲劇の始まりとは知らずに。

その夜、居間へ行くとパソコンの前に母と姉が集まっていた。「パソコンの様子がおかしい」。嫌な予感がしたが、それは的中した。

そう、コンピューターウイルスだ。

デスクトップに唇のアイコンが出現し、何度ゴミ箱へ持っていっても復活してしまう。更にパソコンの処理速度にも問題が発生していた。

最初は僕も被害者の一人であるような顔でそれを見守っていた。「おかしいね。なんだろうねコレ」。いや、おめーのせいだよ。

そして遂に検索履歴から僕がエロサイトに行った事がバレた。まるで中世の魔女狩りのような勢いで姉は僕を糾弾する。母はブチ切れて僕を殴り始める。

泣きながら僕は途方に暮れた。しかしながら引っ越したばかりの我が家にパソコンに詳しい知人はおらず、通信環境の整っていないパキスタンの最前線にいる父へ連絡しなければならなかった。

ありとあらゆる手段を使ってなんとか父と電話が通じた。音信不通だったので久しぶりだった。普通ならば「お父さん、無事だった?」と宇宙飛行士の家族のようにしても良い筈だ。しかしながら理由がエロサイトによるウイルス感染だからたまったもんじゃない。そこに穴があれば入りたかった。

残念な事に父はパソコンに滅法弱く、解決策は見つからなかった。

こんなくだらない電話を取る余裕もなかったであろう。僕はこの事について今でも父に対して申し訳ないと思っている。

しかし一つだけ希望が浮上した。

「香港支局にいるKなら分かるかもしれない」

奇跡的に父の同僚がパソコンに詳しい事が判明し、続いて電話はパキスタンから香港へと飛んだ。今のように世界といつでも繋がれる時代ではない。当時の国際電話というのは、まるで各国首脳同士による電話会談の如く、極めて緊張感の高いものだった。

家族の中では比較的パソコンができる姉が香港のKさんの指示に従って復旧作業を進めていた。その真剣さといったら映画「シン・ゴジラ」でゴジラ対策に取り組む尾頭ヒロミのようであった。この姿勢はのちに社会人となった今でも活きていると、弟から見てもそう思う。

そんなKさんのお陰でデスクトップにあった唇のアイコンは遂に消えた。

今でもローリングストーンズのマークを見るとPTSDになるのはこの時が原因である。

そんな僕に言い渡された罰は「無期限のネット禁止」という極めて重いものであった。

そんなネットもテレビも漫画もない異国の地で途方に暮れた僕に残された娯楽は「音楽」だった。

田内洵也がギターを手にする2ヶ月前の話である。

あ、申し遅れました。普段は歌をうたっております。いつかこのエピソードを曲にしたいですね。どうぞお見知り置きください。


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