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人間失格

 この歳にして初めて、太宰治の「人間失格」を読みました。なんとなく読んでみようと思ったこの本を今読むことができたのはラッキーでした。なぜかというと自分というものと自分が置かれている状況を最近になってようやく理解できてきた気がするからです。自分とリンクする部分が多かったので、自分が感じたことを綴ろうと思います。記録として残すだけなので読みづらいと思います。(読んだことがない人はネタバレになるかもしれないのでスルーをオススメします。)

1.人の顔色ばかり伺ってきた葉蔵。

 他人に本当の自分を悟られないように道化として生きてきた幼少時代。そして、その偽りの自分を見透かされる恐怖と戦う葉蔵。私は、すごく共感した。自分を作って生きる辛さ、わざとふざけている振りをして、保とうとする人間関係。周りの期待に応えなければならないという重圧。本当の自分を隠さないと保てない人間関係。道化としての自分がいなくなってしまった時に自分が自分でなくなるかもしれないという恐怖。何の特性も持たない自分が誰かに知られてしまう恐怖。読んでいて、あらゆる人に対しての恐怖心を思い返し、心が疲れた。人を心の底から信用することができない今の自分が形成されているのはこのためなのかもしれないと思った。

2.人と繋がっていく葉蔵

 そんな幼少時代を過ごしてきた葉蔵は、人を気遣いすぎる人間になってしまったのだろう。人を恐れる心は、常に誰かを気遣い続けることになり、自分を殺し、誰かのために生きているようなものだ。周りからは優しい人だと思われるかもしれないが、それは彼自身にとって本望ではない。ただ、自分というものがなく、世間(=他者)に合わせて生きているだけだからである。それを自覚している葉蔵は、そんな偽りの人間関係に罪悪を感じているのだと思われる。シズ子とシゲ子の幸福を祈りながら、姿を消す様子はそれをあらわしている。このような「こんな自分と一緒にいない方がいい」という想いは優しさではなく、自己嫌悪のわがままのようにも見えるが、自分を愛することができない葉蔵の心の闇。

 私も他者を気遣いすぎて疲れるし、人の顔色を伺って生きている。だからと言って少し大雑把に生きてみると、本当の自分が見透かされてしまうのではないかという恐怖が顔を出す。「気遣いが出来るね」なんて言われるけれど、その言葉に嬉しいと思ったことはほとんどなく、それはただ気遣っているのではなくて、他者にビビり、自分の弱さにビビっているだけなんですよ。

 この本は読んでいて辛かったですが、思っていたほど気持ちが落ち込むことはなかったです。この作品が名作になっているということは、この本で感じる辛さは人間の普遍的な心理なのかもしれないと思うことができたからです。誰もが人間失格と思って生きているのではないでしょうかね。

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