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まだその言葉は、涙が出る

時々地区の班ごとに、道路沿いの草刈りや、ゴミ拾いなどの活動がある。朝6時から始まるそれに、今現在は母が参加。私は家で、掃除や朝食の準備をする。

1時間ほどして、母が帰宅。
「もう終わったの?」
「うん。あとは男だぢで〇〇(近所の施設)の草刈りだ」

〇〇の草刈り――
去年の春も、それはあった。
そのときは、父が参加した。
たしか、脳梗塞で倒れる2日前のこと。

その数日後、退院することなく逝ってしまった父。同じ班のおじさんたちはそれは驚き、口々に言った。

「何っすや! この前一緒に〇〇の草刈りしたんだぞ!?」
「んだ! いつもどおりに草刈り機械使ってだぞ!?」

草刈りもしたし、運転もしていたし、父が溺愛していた愛犬の散歩もしていた。ただ私がいつもと違うことを話しかけたときは、なかなか応えてくれなかったし、結局応えなかった。

きっと草刈りのように何十年とやってきたことは、自動操縦の如くできるのだろう。

〇〇の草刈り、という言葉は、父を思い出す。
〇〇の草刈り、という言葉は、まだ私に涙を出させる。


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