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供養のドッグフード

母が愛犬チイサイノ(日本スピッツ)との散歩中に、時々出会うご婦人がいる。とても朗らかな方で、合うたびにおしゃべりを楽しんでいた。

あちらも愛犬を連れていて、ここではクロちゃんと呼ぶことにする。

私もこのクロちゃんとは、オオキイノ(ゴールデンレトリバー)との散歩中に何度か会ったことがある。

しかしオス同士だからか、うちのオオキイノとは馬が合わないふうであった。うちのは(多分、遊んでほしくて)ギャンギャン吠えまくって執着していたが、クロちゃんはいつも見向きもせずに、颯爽と通り過ぎていく。

ご婦人と私も、互いに
「ごめんなさいね」
「どうもすみません」
などと毎回手短に言葉を交わして離れた。

一方チイサイノのことはクロちゃんは受け入れていたようで、母はよくクロちゃんのことを「チイサイノの彼氏」と呼んでいた。

しかし男女の仲とはわからないもの。
あるときからチイサイノはクロちゃんを怖がり、避けるようになったらしい。

「あの二人、なんかあったんだべよ」
神妙な顔で語る母がおもしろい。
「チイサイノ、しつこいしうるせぇから、クロちゃんに怒られたんじゃねぇか?」

私もそう思う。
立ち上がって顔にパンチするし。
オオキイノもよくやられる。

そんな男女の仲より、もっとわからないのは人生である。クロちゃんとご婦人の姿は、ここ数ヶ月、見ることがなくなっていた。

  *

つい数日前のこと。
母とチイサイノが散歩をしていると、久しぶりにご婦人と再会したという。

しかしクロちゃんはいない。
代わりに少し元気のないおじさんが一緒に歩いていた。ご婦人の夫樣である。

クロちゃんが、8月に亡くなったそうだ。
少し前から病気だとは聞いていたから、やはりか……と切なくなる。
おじさんはクロちゃんロスまっただ中とのこと。心中お察しする。

ご婦人はいつものように朗らかに母とおしゃべりしたようだが、それでもおじさんと同じくらい、悲しく、寂しかろうと思う。

「もしよかったら、おたくでクロちゃんのドッグフード、もらってくれないかしら」

ご婦人のこの言葉は、ただ「もったいないから」だけではないだろう。
今までクロちゃんが食べてきたもの、クロちゃんのために買ってきたものなのだ。
どうしてゴミとして扱えようか。

それだったら、知らない仲でもないうちの愛犬たちに形見分けして、供養とした方が気持ちも落ち着くだろう。

  *

数日のうちに、ご婦人はうちへやってきた。
車にフードとおやつ、オシッコシートを山ほど積んで。

「こういうの、チイサイノちゃんは食べるかしら……?」
おやつのジャーキーを見せながら恐縮しているご婦人に、私はできるだけ慈しみの心でもって、穏やかに答えた。
「チイサイノは神経質だから食べないかもしれませんが、オオキイノはなんでもおいしく食べますから。ありがたくいただきます」

たとえオオキイノの口に合わないとか、賞味期限切れがあったとしても、うちで全部引き取ろうと決めていた。クロちゃんの家族に、「捨てる」「処分する」をさせるのはキツいだろうと思うから。

ご婦人は「あらそう? よかったぁ」と微笑み、ひとつひとつ手に取って語り始めた。

「最初はこれ食べてたのね。でもだんだんに食べられなくなって……。こういうのだったら食べるかなぁって買ったら食べてくれて。よかったーって同じのいっぱい買ってきたんだけど。そしたらまた全然食べなくなって……。こんなにいっぱい買っちゃって。ダメねぇ、私」

うふふ、といつものように朗らかに笑う。
私に語りかけているようで、目はずっと、手にしたフードやおやつを見ていた。
きっとクロちゃんに話している。
ダメねぇ、私。
ね、そう思うでしょ?クロちゃん。――と。

  *

白いレジ袋いっぱいに、クロちゃんの遺品が詰まっている。

いろんな種類のジャーキーやらフードやらが3袋くらいずつあって、「ダメねぇ、私」と笑うご婦人の姿が浮かぶ。

各種類、必ず1袋は開封済みの状態で。
それらがすべて、半分も減っていない。
食欲が落ちていくクロちゃんに、あれこれ試したことが痛いほど伝わってくる。

うちのチイサイノも、2年前――私の父が亡くなった年――同じ状態に陥った。父に溺愛されていたチイサイノは「おしゃんロス」に陥り、命に関わる病気を発症した。
みるみる食欲が落ちて、あのときの私たちも、いろんなドライフードや缶詰、ジュレ状のおやつなどを買い漁り、これなら食べてくれるかと必死に試したのだった。

「死なれるとつらいから、次はもう飼いたくない」
母はよくそういう。
死なれるつらさはもちろんある。
だけど一緒に暮らした時にも目を向けてほしい。この子たちのおかげで、私たちは喜びや幸せといった豊かさで心を満たされたのだから。


クロちゃん。
いただいたフードやおやつは、予想どおりオオキイノが喜んで食べているからね。

母ちゃん何コレ!
今日のコレ、すっごくおいしい!!

そんな声が聞こえてきそうなほど、目をキラキラさせて喜んでいるからね。

ありがとうね。


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