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労働者は、一緒に過ごす親は選べないけれど、運命をともにする経営者は選べるはず

労働者には会社を選ぶ権利がある。

常日頃、僕はそう思っているのだがどうもあまりそれを権利だと思っていない人が多いように思っている。

確かに会社は強い。会社というと誰を指すのかといえば、経営者ないしは株を保有する資本家ということになるだろうか。彼らは会社という仕組みを成立させて収益化を実現しているという意味ではとても強い。

いくら労働者がいたとしてもそうした仕組みを成立させた人がいなければ社会に価値を生むことはできないしその結果としての収益を上げることもできない。その対価として労働者よりも多くの報酬を得ていることに対して異論はない。この仕組みを構築することこそ経営者の価値だと私は思っている。

しかし、会社を経営する人間はそんなに褒められた人ばかりだろうか。中には、経営者になった頃にはすでに仕組みがあり、何もせずに踏ん反り返っているだけの人もいるだろう。時代とともにその仕組みが破綻しかけているにも関わらず、その仕組みの改善ではなく労働者の努力に解決を丸投げする所業ももはや常態化しているようにも見える。

それが低賃金、サービス残業、長時間労働なのだと思っている。仕組みの効率が悪くなって機能しなくなったとしても、労働者が同一金額で今まで以上の働きをしていればそれはもちろん数字としては伸びるだろう。しかしその伸びはすでに経営者が責任を任されている仕組みの構築による功績ではない。ひとえにその分労働者が動いたというだけに過ぎない。労働者の功績でしかない。

しかし、社会はそんなに甘くなかった。労働者の功績であるはずなのに、経営者の功績にすげ替えられ、そのすげ替え行為は長年明らかにされてこなかった。

しかもそんな一時的な伸びはもちろん限界がある。労働集約的な増収なので当然スケールしない。肉体も疲弊しては維持できない。こんな現象が社会問題として取り上げられるようになって既に結構な時間が経つ。しかし、未だにこれが解決されていない業界や地域が数多あることも事実であろう。

それはなぜか。僕は単に経営者の怠慢だと思っている。仕組みの改善が本業であり、それを実現した功績として単なる労働者よりも多くの報酬や評価を得ているはずなのである。しかし、仕組みとして改善できていないのであれば、それは経営者の責任なのである。労働者がサボるとか、スキルが足りないとかそういう次元の話ではないのである。仕組み改善ができないのであれば既に経営者たる所以を失っているに等しい。

そんな名ばかり経営者にわざわざ従属する必要はない。正しく労働力を活用できない経営者に労働力を提供する必要なんてまったくない。破綻している仕組みを維持して差し上げる義理なんて感じる必要もないし存続させる社会的価値があるわけでもない。

イケてない経営者への労働供給を適切に止め、適切に潰して差し上げるほうがむしろ健全なのではないかと思っている。ブラックなのに働き続けてしまうから、怠慢な経営に甘んじていても成立してしまう。さっさと仕組みを破綻させてあげたほうがいい。そのほうが適切に仕組みを作れる経営者だけが生き残るし、適切な労働力を提供できる人が活用されていく。それこそ社会にとっても価値があるし、労働者側としても幸せなことなのではないかと思っている。

なので、

労働者は運命をともにする経営者を選ぶべき!

と言っていきたい。

しかし、権利を主張するということは同時に責任も生じる。それは、経営者にとって活用しがいのある労働者であり続けることである。

仕組みを維持・発展させるために必要なスキルを持ち続けることや、その仕組の中で円滑に動けなければならない。そのための自己研鑽をし続けなければ主張し続ける権利はない。

まずは、自分は労働者として価値を発揮していると自負している人こそ、働く場所やついていく経営者を選ぶべきだと思う。自身がない人は、これこそ自分が発揮している価値だと主張できる何かを身につけると良いはず。

強みを身に着けた人からどんどんこの権利を行使していかなければ、このまま労働力を活用しきれず衰退していくかもしれない。自分を守り、自分の生活を改善するためでもあるが、社会の発展にもつながる選択であるはずだ。

労働者が正しく経営者を見る目を持ち、適切に労働市場を移動していくことこそが労働環境改善を経営者に促すトリガーになるはずだし、そういう人がマジョリティになっていく社会が実現してほしいな、とふと思ったのであった。


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