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マジっぽさ・ニシダ・謝り

こだわり酒場のレモンサワーを飲んでいる。
セットで安かったし焼き鳥缶がついてたから。
お金がなくって生ビールまでは買えないし。害なく何本も飲める。少なくともそう思い込める。

ラランドのyoutubeが好きだ。
というよりニシダに親近感を勝手に感じている。

友達に以前このことをいってみたら、
「ニシダ、メンタル弱すぎるよね」(細かい表現忘れてる)って返ってきた。
「いや、ニシダの中でいろんなことが矛盾してるんよ」って返した。
ニシダについて何をわかってるんだろうか、わたしよ。
これはダブルバインド、つまり、矛盾した時の行動について学びすぎたからだろうか。(起源はグレゴリーベイトソンであり、私の師である。)
もしくは、ダブルバインド的状況が駆使されている押見修造の『血の轍』に触れすぎたからだろうか。

ラランドのyoutubeチャンネルは、ニシダの弱みを笑いにするシーンがとても多い。いや、多すぎる。

ところで、笑いってとても難しい。
笑いは再現できない。あまりにも関係性が個人的に蓄積される人が多くて、長年やることによる蓄積が巡り巡って、再現が難しいほどの偶然性で(振る舞いの選択肢が絞れていない)歴史的にそうなるということ以上の説明がしにくい。
おそらく笑いとは何かの説明はいろんな人がしているだろうが、おそらくそれは運用上においてもあまり効果がない。事後的にどうして笑ってしまったのかの推測ばかりがあり、成立状況はあまりに属人的なため結局再現性がないのではないだろう。(お笑いをやっている友達は、このいい加減なコメントに怒るだろうか、必要に応じて修正致す所存でございます。)

ラランドのyoutubeを見ていると、とても複雑な気持ちになる。特にニシダ更生プログラムの動画を見ている間、ずっと心が苦しかった。

傷つくのはニシダの気持ちがわかるような気がしてくる時が多いからか。『推し、燃ゆ』を読んだときも近かった。

参考

『そんなこと言われても、自信ないんだけど。』
『やる必要があるのはわかってるけど、できないんだけど』
『あなたは悪くないんだけど、私が悪いことになるのはどうしてなんだろう、悪く見なされることはわかるんだけど。』
ニシダ視点の反論はたくさん浮かぶ。

ただ悲しいのだ。何も反論したくはない。
攻撃されたから。言い返さざるを得なかったから。苦しいから。そんな機構だろうか。(多分今起こっている戦争と同じだろうか。)

これらは正しい。しかし悲しいことに生活の中で正しさは論理的に決まらないし、正しさによって生活は決まらない。ただ歴史の流れの結果として決まっているにすぎない。論理は未来の予測に、過去の原因の推測に活用されるにすぎず、その効果に確証はない。
論理は、異なる立ち位置と視野、経験的処理規則をもった人たちのそれぞれで無意識的過程を経て構築されてしまうものであり、それぞれのところに拠って立とうすればするほど対立が生まれるにすぎない。

論理は因果を捉え切ることができないことを私たちは学校で習うべきだった。人文科学で扱うような自然言語による記述だけでなく、自然科学における数式などの何か一般的には真理として見られていることも、訂正の可能性、反証の可能性にさらされており、その可能性は原理的に尽きることがない。(クリプキ『ヴィドゲインシュタインのパラドクス』、東浩紀『訂正可能性の哲学』、グレゴリー・ベイトソン『精神と自然』)
数式の同値変形はその状況設定の公理体系の中において、その同値変形のつながりのみを正しいとみなすにすぎず、個別の命題それ自体の正しさは言及できず、化学や物理などの経験科学は常にカントがいう〈もの自体〉との距離を原理的に無くすことができない。

また、外部から情報やあてはめるための規則を当てはめる場合だけでなく、中にいても情報や当てはめるための規則を忘れてしまうような私たちの場合はなおさら正しさは論理的に決められないだろう。

そのため、大事なのは合意することだ。論理的に正しい必要は必ずしもない。正しいかではなく〈マジっぽさ〉があるかだ。別に嘘(とみなしているもの)でもいい。ただ本当(とみなしているもの)の方が合意しやすいことが多いことに留意するべきだ。論理的に正しいと言われた方がなんだか納得しやすいのだ。
(その他論理の効果に関係するところ。科学者コミュニティにいる私の感覚としては、物質的な経路と精神的な経路が対応していないものは〈マジっぽさ〉を認めにくい。しかし、物質がないことによる心理的効果、たとえばあるべきものがないことによる不安のようなものは認める。また、事後的に体系化されることで持続することにつながるという意味で論理にも価値を感じる。)

〈マジっぽさ〉があるという言葉を使ってみる利点について考えてみる。情報技術、認知科学の知見を駆使しながら、感情を揺らがせることがどこでも行われている。その中には、綺麗な女性による首肯、子供の泣き声、おっぱいダンス、論理的に正しさを競うなどが行われている。ある特定の方向に選択を向かわせる意味において、形式上政治活動と類似するものだろう。

そのようなものを前にして、〈マジっぽさ〉という言葉を使うことで、少し立ち止まったり、振り返り直すことに役立つかもしれない。そこでなされていることが真実であると思うよりも、人間のどうしようもない理性の限界、無意識、感情的反応、シュールさ、人間臭さ、なによりそれゆえのカワイイもうまく認識できると思うのだ。

これはVR分野において、錯覚と正しい感覚の区別は個体の閾値を超えたかどうかの主観的なものになるということは常識としてある。そして、個人単位の知覚はどれも間違いなどはなく、それを利用することで実質的に現実とみなせるものを作るのがvirtual realityであるということだ。現実と聞くと実体的で固定的だが、〈マジっぽさ〉とすることで、より可塑的で変化しうるもののようにも思いやすいだろうと思う。主観的・粘性的・実質的リアルさ、リアルっぽさをライトに可愛く扱うために〈マジっぽさ〉という言葉を置いておく。

また、上で書いたような説得術自体が悪いわけではない。ただある種の合意形成をするためには邪魔で、なにより過剰であると感じることが増えただけだ。そしてそう感じる人もおそらく少なくなく、邪魔で過剰だから制限する方向の合意形成自体も可能性があり、すでにそういった提案も多く生まれているだろう。

また、合意形成においては、フィクションも大事である。
精神と身体を切り離すというふりをすることによって1日をやり過ごす風俗嬢がいるように(安田弘之『ちひろ』)これは嘘だとというふうにしてみることでうまくできることもある。
また、フィクションは少ない情報ながらも道徳的価値を伝えることができる。児童文学や平和記念碑のようなものは、理想として道徳的なありかたを伝える。スピノザが神話の価値について述べたのと同様に、理解力がない人に対して道徳的価値を伝える機能を持っていた。

また、論理的に正しいが食い違いすぎている間の合意形成の場合、論理的に正しくない矛盾を踏まえた上での合意形成が必要になる。
それを妥協と呼ぶ人は多いだろうが、この合意形成をする際はむしろ妥協があってはならない。矛盾を含めた説明をつくるということの困難さは、そもそも矛盾を説明できる人、矛盾と合意を切り分けて考えられる人が、限りなく少ないことからも予想できるだろう。おそらくこのことは、統治者は少ない方がいいという歴史上の言説に繋がっていたのかもしれない。

しかし、それでは庶民視点での納得感が足りない。知らないところでこそこそと大事なことを決めやがってみたいなことだ。隠しておいた方がいいというのが現実的な解として選ばれてきたことが多かったということだろうが。

熟読できていないため、細部までわからないが、東浩紀が『観光客の哲学』のなかでニコニコ動画型の、会議し視聴者のリアクションを受け取る専門家と、リアクションする視聴者が同時に画面に映る会議を提案している。ここで思い起こすのが、たしかcoten radio のyoutubeの若新さんの会で紹介されたニート株式会社の会議についてだ。(それとも自治体における会議についてだったか)その中にあったのは、疲れるまで会議をすれば、疲れるまで話しあったと言うことにして、暫定的な合意形成がある程度納得した形で終えるできるという話だった。

おそろしく人間臭い。
もちろん統治単位が大きくなるとその有効性がどうなのか、やってみないとわからないが、(それとも過去には似たような試みがあるのか?)ニコニコ会議型の長回しによる政治的意思決定過程と決定は、庶民の納得感と専門家の意思決定を両立しうるかもしれない。

おそらくその場合、専門家の反応性が問われるだろう。そういえば、youtubeのrehackに出てくる政治家に対する視聴者の反応は、政治家の反応に素直さを感じるか、魅力があるかといった人間臭い評価が目立つ。

要するに論理的に正しいと信じているものを適度に使いながらもその脆さを理解し、時には矛盾を緩和させるフィクションを使って、落とし所を決定するという素朴な話が大事だという話だ。

ところで、科学者含め何かの体系化、普遍化を目指すものは、その知識の理学的側面を美学として、工学的側面を工業として扱いつつも、倫理をそれらから切り離して取り扱うことが必要になるのではないかと思っている。

また、上で書いてきたことは反科学ではない。科学の限界の言及であるが、それによって、ほかの反科学的なものの正当性が変化するわけではないということに注意したい。
したがって、反科学的なものも同様の方法で棄却される可能性がある。また、反科学ではないかもしれないが、倫理(ポリティカルコレクトネスも含む)自体の中にふくまれる論理の正当性も変化しない。

ただここで書いていることは、傷や痛みに対しての処世術とほかの領域の知の認識を矛盾なく(または矛盾があったとしても)両立させる方法論を探っているだけだ。傷に対しての思いやりの心のようなものは比較的合意が取りやすいもののように思っている。(それらを社会レベルで成り立たせる、政治論、家族論は、今回の文章の元となった『訂正可能性の哲学』そのものにあたってほしい。)


ところで、情報環境をハックした工業的実践とカルト的正のフィードバックにより、たくさんお金と支持者をもち、倫理が塗りつぶされていることも増えているように思う。
カリスマ的な人気を持っている人、たとえばユーチューバーのヒカルやデジタルネイチャー思想をもつ落合陽一がぼんやりと浮かぶ。彼らも他の一般的な人と同様に、歳をとるにつれて発言が少しずつ変化していっているような気がする。個人的にはお二人とも好きだが、集団的な影響については問題があるような気もする。

そういえば、ニーチェのツァラトゥストラはニヒリズムを越えようとした結果、私的には赤ちゃんのように無邪気であるが、まわりからみると押し付けがましい美学に酔ったテロリストになっているのではないか、と思うことがある。彼は理性を働かせすぎた結果、過剰に自己否定すると同時に自己否定したように思える。それは若手起業家、エンジニアと相性がいいだろう。


戦争をどう調停するかといったセンシティブな課題については、どのように感情を落ち着かせるかという自然科学的には扱いづらい話に当然なる。
ここでは私たちが嘘や真実だと思い込んでいるあれこれを駆使して、いかにして落とし所を見つけるのかという、やはり柔軟な対応が必要になる。

受けた傷の捉え直しと目の前の人の傷にいかにして向き合うか。

過去の何かしらの選択が、論理的に間違っていないとしても、悪気はないとしても、自由意志なんてないとしても、大義があったとしても、偶然だとしても、必然だとしても、罪も罰もなかったとしても、傷に向き合うことは別の話だと考えることを提案したい。
つまり、合意形成をするためにはある段階で(すぐにできないことも多いだろうが)傷をつけたことを謝ったほうがよいということだ。

罪と罰の概念、〈罪と罰〉と傷とは切り離してもいい。ただそうなると、謝ることと罪と罰の関係性の捉え方については、ある程度揃えた方が合意形成しやすいかもしれないが。
しかし、それは間違いなく難しいだろう。
他者の傷に向き合うことから謝ることが生まれるものであるとしても、傷に向き合うことは無意識的に回避されることであるし、(ニシダはサーヤからそのように指摘されることも度々ある。)(国分功一朗、熊谷晋一郎『責任の生成:中動態と当事者研究』、宮口幸治『ケーキの切れない非行少年たち』あくまでニシダとの並置がある特定の障害とニシダを結びつけることを目的としていないことは注意したい。)また、罪と罰の捉え方には宗教的な違いも大きい。

それは仕方がない。すでにそうなってしまっているものをまず受け止めた方がいい。
そして、何か特定の集団の論理で、何かを強制すること、啓蒙しようとは思わないほうがいい。
それでは、せいぜいできることは個人レベルにおいて謝ることができるタイミングが長期的になるように見据えることと、さらに個人レベルではなく集団レベルとしてできる人が謝るということをどのように担保するかという二段構えで考える方が建設的だろうか。
なお、加害者、被害者が亡くなったところで傷は消えるわけではない。トニ・モリスンが示したとおり、残された人に場に歴史に、傷は同じ傷口でないとしても残り続けることになる。つまり、ある傷は新たに傷を作る。
ある段階で謝ることでその別の傷口が少し癒えることだってある。というよりそれしかできない。
罪と罰と傷と謝りについてはより納得感があり残り続ける理論的な提案が必要な部分だと思うが、上のような文章以上まだあまり浮かばない。

また、傷を癒すことにおいて、嘘は必要である。
たとえば、トラウマの研究者である宮地尚子はたびたびトラウマの治療の過程におけるフィクションの効果について触れている。
傷は深いほど当事者に近い人にとっては直視できなくなる。そこで、距離をとってある意味間接的に捉えることも必要になる。
そのとき、詩や小説などは微妙な距離のままいてくれて、傷がいえること、やり過ごすことに働くことがある。傷は癒やそうとしすぎることも何もしないのも避けるべきだ。その過程において牧歌的とさえ揶揄されうるような虚構さえも必要だろう。

また、論理が因果を扱いにくいのに対し、物語や詩は因果を扱いやすい。論理的思考は時間変化を含まないものと時間変化を含むものの区別が苦手だ。
つまり、「もし〇〇があれば、(時間という概念なく)と「もし〇〇があって、(時間が経てば)」に対する言葉による区別がない。
そのため、時間変化を含まないものとして矛盾していることも、時間変化を含むものとして考えた場合矛盾していないということはよくある。むしろ、(感覚として)論理として矛盾しているがゆえに、因果として物事が起こるということが往々にしてある。というより、実際に起きてしまったのに矛盾しているように思われることにはこの論理と因果の違いがある。この場合、詩や物語を使った場合の方が、正確ではないがより過不足なく因果を映し出すことも多い。


話がよくわからなくなってきた。
ただこの矛盾は正しく感じているが。
しかし、これはただの提案として置いておく。

わたしが正しいなんて言葉、美しいだけで正しいわけでもなく勝手に思っておくべきことだと思う。比較はするのは大事だと感じるが。人のうち知性的であろうとするような、ほぼ絶滅している中、たまたま生き残っただけにすぎない一部の人においては。

といいながら知性的である必要もない。知性的な人もいて、知性的でない人もいればバランスが取れる。そして、そこで生まれる対立のようなものがあったとしても、大きな問題にいたらないとしたら、楽しくてとらえれば良い。


話を戻さないと。

ニシダを見ていると笑いにされているか、笑わせているのかわからず、心がとても痛むことが多いのだ。ニシダはわたしではないか。わたし以外にもニシダに共感する人はいて、それをカルト宗教的だと言われたところで、そこに間違いはない。間違えていてもいい。有害じゃなくてカワイイうちはそれでいい。

わかる人が多いのではないか。今は多様性の時代って言われているらしい。
表面的に傷を舐め合う人、薄ら寒く見ている人、だからどうすればいいんだろうという人がいることを指しているのだろうか。
(参考 高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』)

ラランドのyoutube動画をみるとこれはお笑いなのかガチなのかわからないことが多い。それらは混じっている、そして、時間変化している。しかもスタッフと演者の人のそれぞれで異なる。そのため、恐ろしく危ういが、その危うさ故に目が離せなくてとても面白い。 

おそらくその矛盾を孕みながら時間的に変異するものを現状の自然科学は理解できないだろう。(おそらくヴィドゲンシュタインの言語ゲームを参考にすべきだ(『哲学研究』(未読))そして、それは100年後にもできないだろう。

今西洋科学的な研究をしている人の多くは矛盾を扱うためのフレームワークを扱うための意義や知恵を学習していない。
人類学、生物学、文学、認知科学、精神分析、言語学、形式を扱うための数学(離散数学、グラフ理論、論理学)がそのための現在の人類がもっている数少ない智慧になるだろう。
しかし、それらのうちの2つ以上を駆使できる人はなかなか現れない。矛盾とは何かについての智慧を開拓、伝達できる人に要求される経験、知識範囲、そして何より論理の水準がおそらくあまりにも高すぎるのだろう。
論理を扱える人にしか矛盾を扱うことはできないし、ゲームと記述法を体感的に複数持っておく必要がある。それは、結果だけを見ると確率的データ形式変換機でしかない現状の人工知能には不可能だ。

(理学的に意味論として理解しきれていない工学アルゴリズムによって、エイヤッと論理誤謬的に数と量を混ぜて笑いを計量しようとすることはあるかもしれないが、その結果はリアリティに到達し得ない数値を叩き出す計算機を改良して喜ぶにすぎないのがほとんどだろう。もしも視覚的などの直感的な感覚提示に変換することによって結果的に喜びを与えるものを作るという意味でリアリティを得ることはあり得るが。論理的に人は知覚しているのではないため、人は論理的に間違っているものを動物的に喜びうる。(動物さん、ごめんなさい))

さらに、素朴さが必要になる。
鷲田清一は『死なないでいる理由』の中で、生きるための理由はないが、死なないでいるための理由は生まれうると述べていた記憶がある。宮台真司がどこかの媒体で、人を殺さないための理由は論理的には獲得することができず、経験により殺せないだけに過ぎないというようなことが述べていた記憶がある。『カラマーゾフの兄弟』のイワンの行動も踏まえると、テロリスト、ニヒリズムは知識や論理では防ぐことができないどころか、むしろ知識や論理から生まれてしまうといえるだろう。
偶然的経験から素朴に生まれるもののために、システム的振る舞いとして有害さはある程度のところで抑えられるにすぎない。


結論、ニシダが大好きだ。
そして相方のサーヤもYouTubeチャンネルのスタッフさんもニシダに愛を持って接しているようにも見える。しかし、それが何十年も続くようなバランスが保たれているか、スマホの画面越しに見ている私からすると判断がつかない。というのも一般人的な感覚からするとああいった扱われ方をされている人がいたらバランスが保たれているとは到底思いにくい。私に置き換えたら辛くなってくるのだ。

演者のように私生活と動画それぞれで異なると同時に完全に分かれているわけでもない変容し続けるルールにおいて活動することになることの心理的影響について、あまり知識を持っていない。それでも、同時に二つのゲームで評価され、あるゲームでは間違っており、あるゲームでは合っているとされる、どうしようもない矛盾したタイミングがあり、その両方をぼんやりと受け止めてたり受け流すような対処が必要であることは間違いない。

ただニシダの味方にいる人がバランスよくいてくれたらとファンの一人としては思う。(ちびまるこにとっての友蔵みたいな人がいるとか)まあ芸人として長年やってきたんだし、ああいう不安定なあり方に慣れているだろうと、おそらく大丈夫だというふうにみなすほかないなぁ、なんとなく思っている。
あとニシダはかわいく魅力があるから周りから人が離れることはないだろうし。


いつのまにか、二つ以上のゲーム、二つ以上の論理規則に課されるようになることを踏まえた論理の捉え方の話にもなっていた。正確さを重要視するなら、内(もしくは一つ目)のゲームの論理、外(もしくは二つ目)のゲームの論理を分けて記載すべきだろうが。

なお、タイトルはリチャード・ローティ 『偶然性・アイロニー・連帯』、全体としては東浩紀『訂正可能性の哲学』を踏まえているが、誤読もしているはずのため、もしも論をちゃんと追いたいとしたら文中の書籍を当たって欲しい。その価値はあると思う。


P.S.
生物学的な男っぽい人に表面的にカワイイって言いやすいのってなんなんだろうね。

最近大好きだった人が亡くなって、あれから数ヶ月の間身動き取りづらくって。自然現象として理解してるけど辛さはずっとある。リベラリズム的発言はステルス的に秘めて日常に馴染むようにしてる。髪切ったし。あと政治の話は地球が何周回ってもできればせずに済ませたい。したところでこの時代に理学は知恵は届いた感覚がしない。世田谷的な発言を聞いても、なんでただ無駄に対立させてるんだろうとしか思えないことがあまりに多いし。世田谷よりも、秋葉よりも、歌舞伎が好きだし、境界を越境するような現代芸術が本質的に日本文化を捉えている気がする。


対立はできればしたくない。リベラルって表明しても価値があるのかよくわからない。もちろん気持ちは分からなくはないし、痛みは正しいし、声を上げること自体はとても大事だ。
しかし、工程が悪い感じがすることが多い。

全てはゆるめのパズルのピースののようなもののかみ合いの関係に過ぎず、その上であるところで分岐する。その間を啓蒙や議論などで埋めれると考えれることは理想的で気持ちがいい。
私がそうであるようにそれぞれみんな未熟で、知識、智慧不足なのは間違いない。

しかし、その上で啓蒙しなければなんて妄想はもう時代遅れなのかもしれない。集団として増強されて大きな問題がうまれないような仕組みを作れるように努める、そんな建設的な工程を経ることができればいい。しかし、そこには倫理的に、痛みを減らそうとする視点が常に必要であり、それが欠けてしまい、負のフィードバックがかからない機構にある時点になることで暴走する。

(多くの場合議論は納得感のために必要であると、帰結主義的に考えるのはぶらさなくていい気がする。一神教が現代では集団レベルだと歴史の流れの中で外部を作るとともに外部との関係で矛盾が生みがち、帰結的に集団レベルとしては危険であるように見えていることには注意を払うべきだろう。逆にいうと個人の範囲では外敵とみなす人がいない範囲では宗教は何も悪くはないが。)

真実とされていることは真実っぽいことであるとともに、真実っぽい以上を意味しない。よく見ればちょいブスのチェキにお金をたらふく払うのがイマドキになっている。(こんな言葉遣いをリベラル的な人が差別的だというのは正しい。)

これらはアイデンディティを必要としている人が多いのに、素朴な形としては担保できていないからかもしれずに、正のフィードバックを止める機構としての、アイデンディティを担保する機構としての家族が、システム論的機能を果たせていないことが確率的に増えてきたからだろう。

そう言えば、東浩紀のいう、本垢と裏垢の混じった人間に、ゲームとプレイヤーが混じった人間に、また、ドストエフスキーの主人公のどれに相当するかに、ニシダを当てはめて考えてみたかったのだが、いつの間にか忘れていた。
何かそれはそれで一線超えて悪い影響を与えるかも知れず。
(精神医学の中にあるような倫理的問題がある気がする。さらにいえば、同様に上の文章も修正した方がいいかもしれない。)

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