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幽霊との共存

幽霊のことばかりを考えている
というより、もとから幽霊のことばかりを考えていたんだと思う。
でも、最近特に考えるようになったのは、
東浩紀の書籍を何冊か、特に『存在論的、郵便的』を読んだからだろう。自分がこれまで悩んでいたことに幽霊という言葉をあてるきっかけになった。

東浩紀の本は、読んだ人に「かもしれない」を強く考えさせる。
取りこぼしを考えること。
他者を考えること。
忘れてしまったあれやこれを思い出してしまうこと。
生活していると、言葉を使っていると、研究をしていると、理想を掲げるとそれゆえに見えなくなるもの。

幽霊にとりつかれたのは、
きれいな理想だけでなくにゃんたこのような生活が好きだから。
児童文学だけでなく私小説が好きだから、
羊文学だけでなく大森靖子が好きだから、
若さを忘れずに年を取ったからとか。

あと、東浩紀の言葉は、哲学は、今の時代に必要だなとつくづく思う。
必要と気づく機会すらない流れがあまりに強すぎるし。

だから読んでいたけれど。 

生活に困る。滞る。
「かもしれない」は、無意識に意識を働かせるようなもの。
体がぎこちなくなる。動きにくい。生活が難しい。
皮肉的になる。
相手の言っている言葉の穴が見えてしまう。
見えたところでどうしようもないことも多い。

取りこぼしに目を向けてといってみたとして。
取りこぼしが複数であろうと、単数であろうと目を向けることは神秘的な目線を向けてしまうことがある。
人工の海、溶解する身体、世界の外、黒い身体、クリトリス、ファルス、メシア、動物、ムーミン。

〈際〉を前にすると愛憎が起こる、手が止まる。
むしろ取りこぼしを考えることは手を止めることを必要とするものと考えたほうがいい。
でも、手を止めるべきではない人ばかりが手を止めてしまうばかりで、手を止めたほうがいい人が手を止めてくれるわけではない。何かの掛け違い。
だから手を止めることは目的にはならず、経由地点でしかない。


あと、千葉雅也の『動きすぎてはいけない』を読んでいた。
千葉雅也は東浩紀を介して、ドゥルーズを読み替えながら、個体的なまとまりの概念としての器官なき身体に注目する。
さらに、マラブーを介して、可塑的な形と複数の取りこぼしをどうやって両立するかを問うていた。
今回の残りの文章では可塑的な形について感じたことについて。

形に目を向けることも大事だとおもう。
営んでいる生活の生活っぽさに目を向けること。

哲学、学問といった言葉中心以前の身体中心の生活として生まれる有限性のために。

それを哲学的に説明してくれてよかった。
感情で論理が動くように論理で感情が動くこともあるから。
一定ラインを越えてアイロニーになったものは、運動の過程に対するアイロニーをもってしかユーモアを持てないから。
サディズムは運動の過程に対してのサディズムを持ってしかマゾヒズムになれないから。

自然法則の根源的な偶然性を背後に透かしながら、必然性を求めてしまう私を慈しむためには、
デカくなりすぎているから少し壊したほうがいいとか、小さすぎるから積み上げたほうがいいとか思いながら、ありあわせのものから時にはうそもつく弁護士であり続けてきたし、それでいいのだろう。
あとは、循環する保守といえるような可塑的なものになっているかとか、プラスティック爆弾というような破壊的可塑性・人格が壊れたとか・名前の変更が起こっているかとか言ってみたり。

取りこぼしをそれなりに減らすために可塑的な形を考えるために、こういう本を読んでいるけど。なぜこんなにもいろいろなことを考えているのだろうと思う。そんな虚しさも少しはある。

止めたいなとも思う。止まれなかったりする。
疲れたいから止まらないのかもしれない。疲れたらただ手が止まる。ただ文章が止まる。そもそもそうして暮らしてきた。そうして現在が変わったことになる。程度の程度。それをそのまま出してしまってもいいのだろう。そういえば喉が渇いてきたし、お腹が空いてきた。

P.S.
マラブーのデリダ、ドゥルーズに対する批判をもとに、
とりあえず本文では取りこぼすもの(超越的なもの)が一つだけの場合と、複数の場合とを一緒くたにしています。
しかし、実際のところ、東浩紀と千葉雅也の両方が超越的なものが単数の場合は宗教化しやすいのに対し、複数化ものは宗教化しにくい、また宗教化したとしても終末思想のように危なくなりにくいと指摘しています。つまり、根拠の不在ゆえに根拠を持ってしまうような決断を避けるためには説明できないものは複数であるほうがいいということです。
そのため、取りこぼし、理解できないものを単数か複数かで区別することが大事だというのは注意が必要でしょう。
また、マラブーの可塑的な形態と、超越論的複数性をどのように両立するのかについての記載は『意味がない無意味』の中に続きの記述があります。
個体と複数的とりこぼしと、器質的=物理的にどのような生命現象と紐づいているかの紐づけをしなおすかによって、つまり、マラブーの可塑的な概念の読み替え(脱構築)を行うことによって、両立可能なものになるのかもしれません。

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