見出し画像

【牧水の恋の歌①】「樹蔭」

海見ても雲あふぎてもあはれわがおもひはかへる同じ樹蔭(こかげ)に  若山牧水

 作者は旅の途中なのだが、海を見ても、雲をあおいでも、思いは「同じ樹陰」へ帰っていくという。そんなにも特別な樹陰とは、きっと愛しいひとと語らい、時を過ごした場所に違いない。


 海の遥かさ、雲の高さが、一首をスケールの大きなものにしている。心に翼が生えて、悠々と飛んでいく感じだ。しかも、その移動は、道のりだけでなく、時間をもさかのぼる。あの日あの時あの場所へと心が向かう。


 どこにいても何をしていても、相手のことを考えてしまう……というのは、恋のよくある症状だが、この歌の場合は「樹陰」に限定して収れんしていくところが、一歩踏みこんで深い。さわやかな風とともに、二人の時間のきらめきが、伝わってくるようだ。この先、たとえ恋が辛い展開になろうとも、この樹陰に思いをはせれば、心は明るく灯ることだろう。恋のはじまりには、誰しもがこのような特別な場面を持つのではないだろうか。


 手紙などの資料によると、牧水は明治四十年の六月に、知り合ってまもない小枝子という女性と、武蔵野を一緒に歩いた。そして三日後には、夏休みで宮崎へ帰省。その途中に中国地方を旅行し、この歌が詠まれた。まだ恋ははじまったばかりで、後ろ髪をひかれるような思いでの帰省だったことだろう。「あはれ」というため息のような詠嘆が、そのことを物語っている。

 「書香」令和元年7月号掲載   書 榎倉香邨


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?