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ホームスクーラー(親)は なにをする?|サイトマップ編

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 ホームスクールマガジン第1弾『ホームスクールをはじめよう~日本のホームスクール』は、ホームページの解説コラムです。それより新しくできたページなので案内&解説noteになります。
 「ホームスクールって、親はなにをしているの?」の不思議に応えたくてつくったページです。

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 ホームスクールは親が教師にならなければならない。そう思ってはいませんでしたか?

 この図は、我が家のホームスクール暮らしで、親・保護者の私がしてきた、あるいはしようと意識してきたことを図解してみたものです。原点がここにあります。

我が子にとって たったひとりの親であればいい


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 kokageのホームページは図解がメインです。インスピレーションがひろがる機会になればうれしいです。
 ホームページの各ページを作成から手放すまでをこのようにイメージしています。

1)伝えたいことを明確に思い浮かべる
配慮していること:伝えたいことを直接的に表現しない
理由:解釈や結論は、受け取ったひとりひとりで違うことを尊重したい

2)「もしも、こうであるならば」を図解する
配慮していること:データーや数値などの事実に固執せず、個々の理解と解釈の思考を手助けするイメージにすること。
理由:「もしも、こうであるならば~」から、ひとりひとりが導き出したその人なりの、その時の答えは、成長途上であることを見守ってほしい

3)未知数の可能性を拡げる
配慮していること:可能性が拡がるように余白を残す
理由:《仮定の条件を訂正する→再び、考える》のスパイラルが作り出され、問い続け、考え続けるまなびの機会にしてほしい

 
 こどもと対話するときも我が家では同様です。正解を伝える(教える/Teach)はしません。むしろ私(親)が「先生にならない」ように気をつけているくらいです。意識していないと、私自身に沁みついた「教育受けてきたあたりまえ」を発揮させてしまうからです。こればかりはすぐにどうにかなるものでもなく、ホームスクール暮らしが続いていく折々にハッとしながら、何度もやりなおし、やがて「教えようとしない」ことのほうが習慣になっていきます。何年も練習が必要なんですね。
 より高度に技術を習得する(Coach)なら、その専門分野に直接乗り込んだほうがより良いですから、私自身が教師役にはなりません。講師になれる分野はありますが、今のところ我が家では講義形式にはならず、生活に取り入れた実践と経験にと心がけています。知識を学び習うが来れば、講義をするカタチもあるかもしれませんが、15歳を過ぎてからだろうというイメージは持っています。それまでは暮らしのなかの経験を積んでいく姿勢の我が家はアンスクーリングといえるかもしれません。

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 まなびあう
 まなびかたを学ぶ


 Know-HowやHow-toを伝授されることとは違い、内在する《自分なりのまなびかた》を引き出していく(Education)役割を担う存在が重要です。たとえば、気持ちを言語化する手助けをするようなことです。うまく表現できないでいることを「それはこういうことだね」とモデルを示したり、あるいは自分のなかにあるものを探すようにうながすことです。
 教えられたとおりに考えても、どうにも理解が難しいことがよくあります。そんなときは考え方を変えて見たり、視点を変えて見たりすると、「あ、そういうことか!」と電球に灯りがともった瞬間を誰しも経験したことがあると思います。それが自分にとって理解しやすい道筋であり、考え方、学び方、その方法のガイドになります。それらは、ひとりひとり違っていると考えています。けれどもまったく見たこともない聞いたこともない知らないことはどうにも思いつきようがありません。ですから多様で適切なヒントや刺激を与えてくれる存在がとても重要になるのです。
 ホームスクール(Homeschool)がこども主体であることは、そんなイメージではないでしょうか。

こどもが 答えを 持っている


 このような学習環境をなんと呼ぶのか私は知りません。それは過去においてもおそらくは未来においても、多様な「〇〇教育法」の名前を使うことに意味はなく、その本質は人類が学び習い、成長してきた葉脈を受け継いでいると考えるからです。おそらく誰かは、これに名前をつけているでしょう。編み出していることでしょう。なぜなら、それが本質に倣ったものであるからです。

 これらの環境を作る手助けをしてくれる人(Adviser)も必要です。図解ではホームスクーラー(Homeschooler =親・保護者)をサポートしてくれる存在です。日本は東洋的な思想が根強いためか全体的包括的(ホリスティック)な制度整備が得意ですが、それでは人格者だとか徳のある人だとか、ともかくどの領域にも優れている人が同時進行でたくさんのことを一度にこなさなければならなくなります。優秀な人間だけが、頂点に立たなければならない社会構造しか成り立たないことになるのではと考えられないでしょうか。誰にでも始められるけど、誰の目に見えても優秀である必要は無く、必要な人にとっての必要なことが「ちょうどよく」できていればいいのかなというイメージです。

ホームスクーラーのサポート
親のサポート
保護者のサポート
ひとりの人間としてのサポート
仕事上のサポート
・・・

 それぞれの顔を持つ必要にせまられることは確かにあるのですから、それに適したピンポイントのアドバイスを得ることも必要不可欠なのです。それは〔誰に・なにを〕相談しえるのかを明確にします。〔最良の結果〕をイメージしつつ、最善を尽くすことができます。
 それらを最終的には、包括的にとらえなおし、複数にまたがる領域を超えて、全体的に眺めることで、ようやく自分の答えが導きだされるように感じています。


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 フィードバック(Feedback)が介在することが、まなびあいの基本であると思っています。敬意を払うことができる対等な関係であると言えます。互いの意思に耳を傾け、尊重することができる間柄にあるということです。ですから、ここではチューター(Tutor)となっていますが、個人指導者の意味になりますが、ただ単に一対一の意味にはとどまらないと考えています。そこに人間性であったり、相性であったりを求めることになります。そのためには色眼鏡をかけない・かけられないことが必要ですし、どちらもありのままをみることができる人間性の成熟が必要だということがわかります。
 上記の図のFeedbackは「コーチング」の単語に置き換えられます。コーチングの技術は「誰にも同じような技術」を持って対応することはできません。基礎的な技術を持っていることは前提ですが、さらに個々人に対応できることが求められていて、その資質が前述したようなことです。経験やセンス(感性)に依るところは大きいかもしれません。だから非常に相性が生じるのです。
 学校や教育制度で、担任であることや学習コーチなど、担当性が採用されますが、双方の希望によりいつでもタイミングよく組み合わせを変更できる柔軟性は必要不可欠なようにとても思います。(『一考:ホームスクール制度』マガジンにて、再度、まとめたいと思います。)

 ここでひとつ重要なことは、これらをすべて親・保護者が責任を負うことができるのがホームスクールともいえますが、やはりこども主体のホームスクールですから、こどもにとってのホームスクール環境が誰の手によって整えられるかという視点に立ってみると、それは必ずしも家族のなかだけで完結しなくてもよいのではないか、と考えられます。

 例えば、とあるアフリカの民族のなかでは、子育ては村の女性全員でなされることであり、誰もが親であり、どの子もみんなの子どもである光景が見られました。生母と実子の単位であるべき理由が見当たりませんでした。これを聞くと、思えば、長屋という風景はそういうものであったのかしらと思いをはせるのです。
 教育の歴史は、大抵は貴族や士族であるなど位(くらい)の高い層のものであったのが、だんだんと民衆に降りてきて一般大衆化したものがほとんどです。ですから、教育の内容や在り方が、必ずしも一般大衆の暮らしや生活に密着しているものではないことが多々あると考えられます。どちらかといえば大衆の存在は、位(くらい)の高い層が高い地位にあることを自覚するために認識するために利用される目的に同じ場に居合わせることがほとんどのような気さえするのです。高い地位にいる者の自覚、それは高い地位でできること、するべきことの教育です。「高い」が肯定されるためには「低い」が同時に存在する必要があることは言うまでもありません。それは上下支配関係を肯定する社会構造を成立させる大前提であるといえるでしょう。
 しかし「学び習う」場は、本来、人類全体が進化向上するために必要な学習の機会であるはずです。そこで学び、あらたな気づきを得て、よりよい社会をつくる発見を得る経験をしてほしいものです。分相応に振舞うことを打ち付けられるようなことないよう、平等の精神が約束される場であることが公教育の前提だと、いえないでしょうか…。


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