見出し画像

まえをあるいてね、うしろにいるからね

 まだ言葉が出ない頃、こどもは私の前にいて、あちらこちらに目を移しては立ち止まり、しゃがみこみ、また歩いては、立ち止まりと、それでいて私からはそんなに離れず歩いていたような気がします。いつしか、どこどこへ行くよ、と声をかけて、それを理解すると、ちゃあんといつもの道を通ってそこまでたどりつきます。おもしろいことに、いつもの道でなく、なにかの帰り道や散歩道の途中で、「公園へまわろうか」と言ったとき、近道をしようとすると「その道ではない」というように歩こうとしません。いつもの道からいつものルートで、といわんばかりに、私から見るとちょっと遠回りをしています。「ほら、公園が見えるでしょう?ここからが近いよ」と言っても、(ちがう、ちがう!)とばかりにいつもの道へと私を連れて行こうとします。これまた不思議ですね。私を連れて行かないと私が着いてこないかもしれないとちゃんと考えているのですから。私がどうしたいと思っているのかもちゃんとわかっているのですね。こどもにしたら、(おかあさんが間違ってる。たいへんだ。助けてあげなきゃ!)と思っていたのかもしれません。

 さぁ、行くよ~!
 
 こどもたちが各々、自分の足で歩いていく頃には、「さぁ、行くよ」と声をかけるのは私ですが、私を連れていくのはこどもたちです。こどもたちがいつも私の前を歩いていました。それは公園に行く時だけではありません。よく行くいくつかのお店の場所はよく覚えているようでした。あまり行かないところ、初めて行く場所に一緒に行くときには、道の途中で、ここはどこへつながる道だね、と声をかけます。するとこどもは「いつもの場所に近いのだ」と安心しては、また歩くのでした。目的地に到着すると「ここは役場。今日はここで用事をするよ。」と言いました。
 「今日は、銀行へ行って、郵便局へ行って、それからパン屋さんによってパンを買って帰ってくるよ」と伝えていました。それはもうこどもたちが大きくなっても習慣のようなもので、つい私が「どこへ行くんだっけ?」と忘れてしまっても、こどもが覚えてくれています。「あ、そうだった!」ととても助かっています。最近では「すぐ忘れちゃうから、教えてよ?」と丸ごと頼っているのは私のほうですね。

 どうするの~?
 どこ、行くの~?
 どうやって行くの~?
 どっちから行くの~?

 私がいつもこどもに訊いています。こどもは「しかたないなぁ」という顔はしません。真剣に伝えてくれます。こどもたちはすっかり大きくなって、上の3人はティーンズです。長女は「これがいいと思ってるけど、どれがいい?」と訊いてきます。長男は何も言わずに進むほうで、ちょっと待てと声をかけたとしたら「え?こっちじゃないの?」と返ってきます。なんていうか、情報処理する上で、はしょる部分が圧倒的に多すぎるでしょ、という感じです。その分、いつもゆったりのんびり落ちついているので周囲に根拠のない安心感を与える人物です。次男は無口なほうでしょうか。でも実は兄の不測の事態をもっとも予測しているのでとても慎重派です。キョウダイのなかで一番、道を知っていて、迷子にならない方法も知っています。長女と次男は私にはてんでわからない方向感覚があります。長女は決断するのにとても時間がかかるので、その分、迷っているのと同じくらい遅いんですけれども。次女さんはちょっと小難しくて、「あっちかなー」と耳にするやそのまま全速前進。途中で「あ、やっぱりこっちでいいかな?」なんて、変更すると即座に対応できないという猪突猛進ぶりに本人も自分で手に余ってるそうです。いやいやこれは冗談抜きで、自転車に乗ったままどうしたらいいのか判断できず、直進したままT字路の歩道に垂直にぶつかってとまったというほどでした。半泣きでした。決定事項を変更するのが難しく、シミュレーションできない事態に対応することが非常に怖ろしいと感じるのです。実は、私にも身に覚えがあります。20代を過ぎてはじめて、柔軟性が徐々に身に着いてきたかなと思うほどなので、それまで大変な目にたっぷりと会うだろうなぁ。4人もいるとひとりひとりのことを書き始めてしまうとあっというまに字数が増えてしまいますね。ごめんなさい。

 あるとき、私がいつも前を歩いている時期がありました。なにかを私が決めないといけないことが山積みに合って、やることもたくさんありました。こなさなければならないこと、終わらせなければならないことが、私一人のものになったからです。ふと気づくと、こどもたちは「ついていく」ことに慣れてしまっていたのでした。これまでの「連れていく」という関係性のほうが絶対に長かったのに、ほんのちょっとの環境の変化でもこどもはすぐさま対応できるし、適応できてしまいます。大人とこどもの時間の感覚が違うのも大きな理由かもしれません。大人にとって「ちょっと」の時間でも、こどもにとっては幼ければ幼いほど「いつ終わるかわからない長い時間」同然なのですから。
 これはいけない。反省した瞬間です。

 とある町に住んでいた時、そこでは自転車講習を受けるとこどもは街中で自転車を走らせてもよいということになっていました。小学校での決めごとですが、ほとんどの子がその小学校に通っているので、近所のこどもたちの間でも大人たちの間でも暗黙の了解事項というものになります。ホームスクールのわが家でもそれにならい、学校外で行われる警察署が催す自転車講習のあるイベントに参加し、自転車免許証をいただきました。うれしいものですね。それとは別に、生活圏内を自転車でくまなく走り、私はこどもたちの一番うしろから注意する場所や道、注意する点を伝えたのでした。踏切の渡り方なんて、ちょうどよいタイミングで電車が来て、まさしく戻るか進むかのさながら実地訓練になり、みんなで大笑いしたのでした。そういえば、このときも「教える」というものでありながら、教える立場にいる私は後ろにいて、こどもたちは前にいたのだと思いだしました。


 まえをあるいてね、うしろにいるからね

 「どっちに行くのー?」「右だよー!」
 一緒におつかい、お買いもの。こどもが走りながら、ちょっとだけ見えない距離に居ます。私がのんびり歩いていると、立ち止まって振り返って待っていたり、走って戻ってきたと思ったら、また走って先に行ったり。ちょっとずつちょっとずつこうして距離を長くとりながら、やがては。

 姿が見えなくなっても、やっぱり


うしろにいるからね

 

ここまでお読みくださりありがとうございます! 心に響くなにかをお伝えできていたら、うれしいです。 フォロー&サポートも是非。お待ちしています。