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居場所はどこに

 なんだか以前にも同じタイトルで書いたなぁなんて思っているのだけど、最近のテーマです。『居場所』。
 こんなつぶやきをしました。

 「居場所のない」って…そこですでに前提として断定されてしまっている哀しさがあるんですよね。(別の場所や別の機会、タイミングってものだってあるものさ…)とそれなりに割り切りかたを知っている大人ならともかく、いわゆる「不登校」の渦中にいる若者にとって、居場所っていうのは、今そこに居るはずの自分、自分と同年代の、同級生が日常に過ごしているその空間なわけで…。その居場所であるはずの場所を「自分の居場所ではない」と受け容れるまでの葛藤は人生と命を懸けてます。文字通りです。

 『居場所』って帰る場所です。「おかえり」って言ってもらえて「ただいま」って言える。「また、おいで」って言われて、(また、来てもいいかな)って思える。そういう場所です。いつでも、行きたいなって思ったときに自分の力でたどり着ける場所です。
 『居場所』って「ここだ」って自分で決めるんです。


 「居場所のないこどもたちに居場所を」というフレーズに躊躇するという気持ちの底にあるのは、それだということですね。

 居場所はある
 きみが決めるんだ
 それが、きみの場所だよ

 いつまでもそこが自分の居場所であってほしかった場所があります。人がいます。空間があります。それでも、そこには居られなくなる事態は起こりえます。物理的にそこから身体が離れていても、気持ちはなかなか離れることはできません。心がおいつくまで、気持ちが整うまで、その時間は必要です。それを休養・休息といいます。
 めいっぱい考えて、感じて、後悔のような念を抱いたり、実現不可能なもしもを思い描いてみたり、また現実に戻ってみたり、それでもまた考えてみたりと繰り返して、そこにかけるエネルギーが尽きるまで考えていいと思います。むしろ、そんなエネルギーがつきるまでの時間が必要不可欠なのだとさえ思っています。エネルギーを他所へ向かわせる方法もあるのでしょうが、それは問題を先送りしただけになるかもしれないのです。「あきらめる」というステップを先送りにしただけかもしれないのです。「あきらめる」ことを知ることは、哀しいけれど、さみしいけれど、それは同年代のほかの若者たちよりちょっとだけ先に大人になったということになるのかもしれません。さみしいけれど。もう少しこどものままでいてほしかったけれど。

 あきらめないで居続けることに注ぐエネルギーが尽きたら、なにかが剥がれ落ちたかのように、あきらめがつくかもしれません。かもしれない…ばかりですね。そう言うしかないのは、私はそうだったけれど、あなたは違うかもしれないし、同じかもしれないし、どうなるかはあなた自身でしか確かめることができないから。


 なんなら「居場所にしてはいけない場所」に印をつけておいてくれればいいんですよ。それならわかるじゃないですか。「行ってはいけない場所」なんだなって。そのほうがよほど親切です。だってそれは相手のほうも「来てほしくない場所」でしょう?初めから知っていたら避けられるし、向こうも「来ない」とわかっているのだから、双方安心じゃないですか。「出禁」って看板をおいてくれたらいいんですよ…。

出禁(例)
・平日昼間の学齢期の若者は出入り禁止です
・こどもだけでの入店はできません
・買わない人は入店できません
・こども(〇才)は入ってはいけません

 なんて注意書きのあるお店に、地域の人は、よろこんで利用するのかどうか果たしてわかりませんけれども、可能性としては「大人向け」の店かなというイメージしか湧きませんね。大人の世界と子どもの世界は確かに分けられる必要は街の中に存在します。ゲームセンターではこどもが入店する時間帯って決まっていますね。国の法律「風営法(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)」(風適法とも呼ぶ)と都道府県ごとの条例「風営法の施行条例」です。コンビニやカラオケ店、ボーリング場、映画館等少年の深夜徘徊が社会問題となったことが根拠のようですけれど、これらの場所は適用されていません。青少年の保護と健全な育成という視点から、深夜徘徊が焦点であって、こどもの日中の行動が焦点ではないことに留意すべき点ですね。
 一般的に16才未満(18才未満でもいいですけど)のこどもの年齢にあたる人が日中昼間に「学校に居るべき」という根拠はどこにもないからです。むしろ大人の目の届く場所に居ることの方が重要なのではないでしょうか。目が届くといっても監視しているのではなくて、「見守り」のまなざしがあることですよね。いずれにせよ「こどもの行動を規制する」ことがなにかしらの成果を生むものでは無いし、それは必要なことでもないし、「大人が社会人として自覚を持って、社会の一員であるこどもの保護と健全な育成になにができるか」の視点が重要だということです。これはあらゆる面で言えそうです。児童生徒は学校内に居る学齢期のこどものことをいいますから、それに関しては学校の先生の責任は大きいのかもしれません。こどもは、保護される子女にあたりますから、保護する者とは、保護者(となっている立場にある人)あるいは両親・家族ということになります。家庭での保護の話です。学校と家庭での保護、それから社会での保護と考えると、すべての大人たちが「こどもの保護」に責任を負っているといえますね。

 大人である条件ってなんでしょうか。正社員であることでしょうか。稼いでいることでしょうか。結婚していることでしょうか。こどもがいるってことでしょうか。
 とりあえず、数年後には18才から成人みたいですけど、現行では20才(ハタチ)なんじゃありません?まずそこからですよね。もちろん年齢だけでは、できること・できないこともあります。当然です。だから社会の中でもお互いさまになって然るべきなのかなって想像できます。なんとなくですけど、能力や技術の高さ低さで大人とこどもと分けることはできません。小さな天才も心はこどもです。護られるべき存在であると理解して接していることが、大人の自覚では?なんてことも思いますね。

 

 居場所をあきらめられていないうちに「(きみの)居場所はここだよ」なんて、勝手に決められたくない。
 「居場所は(別の場所に)あるよ」なんて、「今いるそこは居場所じゃないんだよ。あきらめなよ」って言われたくない。

 そう感じてしまうのは、私だけでしょうか。
 せめて、せめて…。

「ここに居るよ」
「ここが、きみの居場所になったらうれしいな」
「きみの居場所になれるかどうかわからないけど、なりたいなって思ってるよ」
「きっと、きみの居場所はたくさんあるんだ。それは絶対そうなんだ。ここもその「ひとつ」になったら、うれしいけど」

 選択権(自己決定権)は、ゆだねてほしいかなって…。


 でも、私はもう少し先を思うんです。

 

どこに居ても
誰と居ても
なにを思っていても

きみは きみ
あなたは あなた
そして、私は私

それが居場所
自分自身でいるってこと




  


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