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ホームスクール制度と社会的養護

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【社会的養護とは】
社会的養護とは、保護者のない児童や、保護者に監護させることが適当でない児童を、公的責任で社会的に養育し、保護するとともに、養育に大きな困難を抱える家庭への支援を行うことです。
社会的養護は、「子どもの最善の利益のために」と「社会全体で子どもを育む」を理念として行われています。ー厚生労働省HPより

 「こども」が多くの時間を過ごす「学校」という場は教育機会の場であることから文部科学省の管轄です。幼稚園から大学までがそうです。保育園は厚生労働省の管轄です。これは幼稚園が教育機関であるのに対して、保育園は保育に欠ける乳幼児を社会的に養護する福祉機関だからです。「保育に欠ける」というのは親の保育能力を指しているのではありません。乳幼児を取り巻く環境に置いて充分な保育状況をかんがみたとき、保育所などで親の子育ち支援を必要としているかどうか、あくまでこども主体の観点です。
 「こども」の居るところは、こうして教育的な観点のみならず、福祉的な観点が非常に重視されます。しかしこれを混同するのはどうかと思っています。教育の役割り、保護と監護の役割りについて、それぞれ社会全体の役割りとして考えていくとより明確になっていくものだと思うのです。


【ホームスクール家庭に虐待可能性を問うのか】


 明確に分けられていない課題としてよくあげられることのうち、もっとも気になるフレーズがひとつあります。

ホームスクールと虐待
A)学校に行かせないことは虐待ではないのか
B)十分な教育を受けられるのか
C)虐待の温床になるのではないのか

 これらはいずれも教育の役割りから切り離して考えるべきであるにも関わらず、巧妙にホームスクールを実践する家庭への説明責任にすり替えられていることがあります。しかもすり替えられていることに気づかず、すりかえの原因となっている前提を疑うことなく説明責任を果たそうとする人が多々見受けられます。ホームスクールに限りません。そのほかのオルタナティブスクール、フリースクールなど学校以外にこどもを通わせている家庭に対して、説明責任をむける眼差しがあります。

 結論からいえばこれら(ABC)はいずれもホームスクールの課題ではありません。社会的養護の課題です。ここを間違ってはいけないと強く思います。社会全体の課題です。「子どもの最善の利益のために」「社会全体で子どもを育む」ための課題です。こどもの居るところすべての場所で、機会で、これは必ず社会全体の仕組みとして護られていなければならないことなのです。ここを取り違えて「学校以外の場の責任」として切り取ってはいけないのです。それは「学校に通わせているなら大丈夫」という疑いもしない学校神話を意味しています。すでに学校神話は崩壊しかけていることを感じているかたは少なくないでしょう。
 疑われるべき前提とはなにか。それは近年、社会の風潮でもある「自己責任論」つまり国がおしすすめている新自由主義の政策です。あらゆる制度や社会保障の仕組みを利用するなかで、私たちは否応なく、この前提のもとで生きていかなければならなくなっています。


【追記】あとがきのようなもの(2018/11/7)



【教育機会とこどもの人権・異なる層の重なり】

 今一度確かめておきたいことは、現行制度に置いてホームスクールをすることは普通教育を選ぶ権利のある自由です。同時に一条校である学校に在籍することが教育義務とされているため、学校に行かない不登校の状況とホームスクールまたは既存の公教育以外のまなびの機会であるオルタナティブ教育を受けて過ごす状況は並行して存在しています。そのため《不登校=ホームスクーリング》といった概念も生まれています。しかし不登校という単語は、制度という側面から見れば「学校に登校していない状況である」という意味に過ぎません。それ以上でもそれ以下でもないのです。しかしながら福祉の側面からみれば、不登校には多くの課題が含まれています。こどもの人権が侵害されているケースです。教育機会の確保とこどもの人権侵害を同時に語ることは重なった層を区別なく、上から眺めて一層とみなしているのと同様です。重なりを認識しながら、それぞれのアプローチが必要不可欠なはずです。課題のすり替えを引き起こしている要因はここにあります。「学校に行けない・行かない」「選択した」という言葉にも、二層の重なりがひとつにされていることがうかがえます。同じ言葉でありながら、気持ちのズレがあきらかにそこにあります。

【第三者の介入はどこまで許されるのか】

 学校という教育施設でありながら、ほとんどのこどもがそこに居るはずだという前提から、さまざまな制度や仕組みが成り立っています。健康診断を学校で受けることもそのひとつです。分野が専門的に細分化されず、大きな場でひとまとめにするという手法は東洋の文化ゆえなのかもしれませんが、線引きが非常にあいまいであることが、良い面でもあり困った面でもあるのです。
 線引きがあいまいであることが良い方向に向く場合というのは、自治があり、自律が護られており、その判断と責任がまかされている場合です。第三者の監督機関への報告義務を持たず、当事者間で協議し、合意形成が成立する関係が持ち得る場合です。自分の役割りを自覚し、相手の役割りも自覚していて、お互いの役目を果たしましょうという約束ができる関係性にあって、両者間でなんとかできる状況をいいます。
 困った面に遭遇する時というのは、例えば「上からの許可が必要」「下からの許可申請が必要」「許可した根拠を上に証明する必要性がある」「許可したあとの経過を報告する義務がある」等々、管理・監督をする第三者の介入です。「そういうことにしておきましょう」と両者間の胸にしまって誰にとっても良いようにしておくというほどよい曖昧さが、ここでは少しも許されなくなります。「世間への申し開きが立たない」ことになるからです。また重大な課題として、責任を取ることの意味では、これもまた日本らしいものですが「切腹」思想があります。責任の所在を明らかにし、その責任を取ることが求められるのです。責任を負う・責任を取るの分別が無く、すべてにおいて失敗や不祥事の責めを監督する立場にある長(ちょう)が受ける仕組みになっています。長(ちょう)は、その上の監督指揮下の立場にあります。こうしたやさしくない社会の構造が、どの組織においても不自由よりもひどい状況を生んでいます。
 逆に第三者の介入が求められるケースとはなんでしょうか。それは当事者間に預けておけない場合です。どちらにも解決能力が無いとみなされている場合です。そのため第三者の公正な判断が求められるのです。
 第三者の介入をどこまで許すのか、求めるのか、そのつなひきはおそらく時代をさかのぼっていってもはるか昔からの命題なのかもしれません。ただ言えることは、ケースによって対応が違っててもよいあいまいさを日本は持っていたはずです。

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