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完璧になろうとしなくていいんだよ

 夏です。毎年、やってきますね。たまには夏が来なくてもいいんじゃないかしら?ずっと春や秋でもいいかしら?
 なんとことをつい思ってしまいましたが、夏は、やはりその夏らしさがいとおしいものです。

「ものすごく夏ーっ!て感じがするねーーーー!!」

 喜び勇んで、ホースから水を吹き飛ばしている少女が我が家にはおります。夏の日差しをあびながら、バケツにはった冷水に両足をつっこんで、まさに夏の涼をたのしんでいます。これで縁側とスイカと麦わら帽子があった完璧では…などと、つい欲をかいてしまいますが、彼女は「今」をこれ以上なく愉しんでいるから、それでいいんです。次に私がそうできるときは、園側はちょっと難しいけどスイカくらいは準備して、そのカタチを作って楽しんでみるのもいいかもしれませんね。そしたら、その次の機会には彼女もさらに「思いついた!」となって、またまた新しい楽しみを発見するのかもしれません。
 夏、楽しいね。

 

 自尊心とか
 自己肯定感とか
 なんだか免許証みたい

「これが出来たら、はい、あなたは自尊心が高いですね」
「そう思えないのですか。そうですか。あなたは自己肯定感が低いんですね」
 えぇと。そろそろ食傷気味といいますか、もう、いいかな?って気がしています。完璧な何者であるかを目指そうとしながら、他者に対しては「私・僕が正しいのよ」という態度で憐れみの目で見下しているのを隠して、「あなたを救います」と言ってしまう傲慢さ。(なによもう、いい加減にしてよ)って、そろそろ反抗してもいいんじゃないかしら。

 いい加減にしてって、なにを?

 そうね。
 「こうあるべき姿」に押し込もうとしないでってことでしょうか。つまり「あなたの言うあなたの正しさは、あなたにとっての完璧であるにすぎないってこと。あなたがあなたであるというそれを他人にも要求しないで」ってことかなと思います。
 だってね。例えば、ここにスイカがあるとします。

「このスイカ、とてもチャーミングな色と形をしているんですよ!鮮やかな濃い緑でしょう?形も美しい球体に近いほどに整っているでしょう?完璧じゃないですか?」

 で。あなたもスイカを実はもらってるんですよ。ベランダで試しに種を植えてみたら、しぶとくもなんと実をつけて、どういうわけかすくすくと育ってたスイカ。小さくて、色も形も、まぁ「スイカだ!」と分かるし、確実にスイカ。間違いなくスイカ。でも特に完璧な色形を目指して育てたわけでもないスイカ。

「こういう色で、こういう形で。あ、そうそう!これくらいの大きさがちょうどいいんですよ。」

ーちょうどいいって、なにがですか?

「そりゃあなた!売れるってことです。買ってくれるお客さんがいるんで、売れるんです。商売になるんです。それって必要な事でしょ?」

 あなたが持っているスイカはそれに比べるととても売り物にはなりません。まぁ、売る気もありません。だって、スイカがなったのがおもしろかったので、だれかに見せて、一緒に割って食べてみようって思いついて、今、お気に入りの風呂敷に包んで持って歩いているわけですから。

ー売れないと…ダメですかね?

「は?何、言ってるんですか、あたりまえでしょう?売らないでどうするんです?売れるから商売になるでしょう?商売にならないと生きていけないし、商品になるようなものを作らないとダメですよ。」

ーはあ。そうなんですか。

「ほら、あなたもこんなスイカが欲しいでしょう?買いたくなるでしょう?」

ーいえ…あの…きっと他にもっと欲しいと思われる方がいらっしゃると思います。

「えぇ?そうなんですか。もったいないことをおっしゃいますねぇ…。おかしな人ですねぇ。わかりました。あなたの言うことももっともです。もっと高く買ってくれる人に売った方が、私もうれしいですから。では。あ!こんなスイカを作りたいって思ったら、いつでも言ってください。作り方を教えますよ。もちろん講師料はサービスしときますよ。お隣のよしみで。楽しみにしていてくださいね~。」

 あなたは、次の瞬間には忘れていることでしょう。だって、あなたの愉しみは、偶然できたおもしろいスイカを、一緒におもしろがってくれる誰かと、食べてみるという一大事が待っているのですから。偶然生まれたそのスイカは、もうすでに役目として完璧なのではありませんか?

 きっと立派なスイカを持っていた方は、一緒におもしろがってくれる人では無いと、あなたは判断したことでしょう。そして、おもしろがってくれる人の検討をつけながら、またなんとなく歩き出していくのでしょう。誰もいない…となったら、それはそれで、「ひとりでほくそえんで楽しむ」愉しみかたも発見するでしょう。


 なんだかね。「自尊心を高く持ちなさい」とか「自己肯定感が低いのはいけません」みたいな話は、最初は確か「この生きづらさってどうしてかしら?」のなにかしらの答えで、それがあることで「安心感」を得られたんですよね。重要な事は、この「安心感を得ること」なはずです。人はリラックスするとアイディアが浮かんだり、機を逃さず行動できたり、的確な判断をしたりできます。安心感を得る知恵のひとつが、自尊心や自己肯定感とはなにかという知識だったわけです。しかし、なんでもモノというのは、旬がありまして。旬をすぎると、苦みや筋も出てきて、噛みにくいやら、飲み込みにくいやらとするものです。
 いつのまにか「自尊心を高く持つこと」や「自己肯定感をあげること」が目的になってやしませんかね。なんてふと思った次第です。

 それで「免許取得しなさい。試験を通るためにはこれこれが必要ですから、お勉強しなさいね」って言われているようで…あれ?という感じがするのですね。みんなが思う「完璧とはこうである」というものの免許を取らないといけませんよってなっている気がしたのでした。
 どうでしょうね。「生きる資格免状」なんてものが、本当に…あるんでしょうか。

 私は私でしかいられなくて、確かにそれは社会にうまく適応できていないようなので、私は立派な社会不適応者ってことになります、時代がそうなのだから、仕方ないでしょ、従わなければ生きていけないのだからねってことですもんね。本当にその通りですよね、うんうん。確かにもう、これまで食べてきたものをこれからも確保することも難しくなってきました。流通にのるものを買えるだけの財力が無い者は得ることもできないし、自力で生み出す土地すらも商品であり、だれかの所有権を移動するには「貨幣」というものが必要で、貨幣は流通にのる能力がないと得ることができません。
 今言う商売とは、いかに「お金持ちにお金を使ってもらえるか」ということだそうです。そして一部の善良な人がしなければならないことは「お金を得られない人に、どうやって品を渡していくか」のようです。

 誰もが、その人らしく雄々しく生きていける未来予想図を描くとしたら、あなたはどんなピースを持っているのでしょうか。私は、どんな・・・。未来を見通す神通力はありませんが、未来を描くことは、私だってやってみてもいいんじゃないかな。どうかしら。夏休みの自由研究に?(笑)



 昨年の夏の終わりに、エアコンからポコポコと音が鳴りだしまして。(これはいけない、修理案件か?)と思い、なおかつエアコン洗浄も頼まねばというタイミングでしたので、7月も終わろうというのに、修理依頼も済ませておらず、ゆえに洗浄も頼んでおらず、今年はまだ除湿機能を使っておりません。
 数年ぶりのクーラー無し暮らし。マンションの構造では必要不可欠と思っていました。クーラーがあると快適なのは確かで、たぶんカビの発生も抑えてくれていたと思うのだけど、意外や意外にエアコン無しで、今年はここまで来ています。そういえば、梅雨のころも、なにかと涼しい日が多かった今年の沖縄です。台風の日だと、本来はエアコンの室外機が台風のなかでまわっているなんて故障の原因って話ですし。このままエアコン無しでもうしばらく行けるかも?と過ごしています。さて、どうなることやら。うふふ。


 そろそろ夜が明ける時間です。

 夏の夜空に、次男はたくさんの星を眺めています。夜明けよりもうちょっと前の時間帯に「星がすごいよー」と声をかけてくれます。向こうの空がほんのり青く、空には雲と、はっきりとした星の瞬きがあります。
 宇宙の片隅の、ここに、わたしたちは居るんだね。

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