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いい感じに期待を裏切ってくれ

 親はこどものことをなんでも知っている、分かってるという幻想は、たぶんきっと親自身も持っていたいし、こどもは無条件に信じているかもしれない。でも、考えてみてほしい。そんなこと本当にあるのかな。


他人を知るなんてすごいアトラクション

 生まれた時からきみを知っている。
 生まれる前からきみがそこにいることを知っている。

 確かにその事実は大きいのだけれど、そして標準的な家庭であれば、産んだ親と子が同じ屋根の下で暮らしているのだろうけど、あるいは誰か大人がいつもそばにいたのだろうけれど、それでも誰も、他者を完璧に知ることはできません。いつなにを思うのか。それはやはり本人ひとりのもの。


 いつだって自分が見たこと、聞いたこと、知ったことからでしか他者という存在を形作ることはできず、知らない一面、予想だにしない一面が必ずあります。だからこそ自分と違う他人と関わることはアトラクション並にすごいことということになるのでしょうね。
 同一人物なのに、人によってまったく人物像が違うのはそのためです。誰もが、同じ顔を同じように全員に見せることだってないでしょう。気が許せる者、話す内容は、つきあいの範囲でおのずと違っています。

形成する集団のタイプが偏ってきた

 そういえば最近では、そういった目的を同じにした一時的な集団を形成する機会がめっぽう無くなっているのだとか。最近といっても、おそらくこの10年以上前、もしかしたらもっとかなり以前からそうなっているのかもしれません。見知らぬ公園を探しにいく冒険は、今ではあまり見られないかもしれません。校区外へ遊びに行ってはいけないという決まりがこどもたち自身にもよく教えられていて、きっちり守られているようです。
 見知らぬ公園では、見知らぬ子どもと出会います。名前も顔も知らないけれど、同じ遊具の前にいれば、もうそこから遊び仲間になってしまうものでした。名前を知らないまま一日中一緒に遊んでいるということは珍しくありません。学年も関係ありません。ちいさな子をうまくサポートしながら一緒に上手に遊ぶ子だっています。
 「一緒に遊ぼう!」。
 それだけでよかったのでした。
 いつもと違う場所では誰もがいつもとは違った顔を見せるものですね。新鮮な感じがそうさせるのかもしれません。旅行が好きという人も、もしかして、そんな理由があるのでしょうか。

 同じ幼稚園、同じ小学校、同じ中学校、同じクラス、同じ町内などなど所属によって形成される集団のなかでのつきあいが標準的になりました。どこに所属しているかが関心の的で、所属していないことには疎外感すら覚えるようです。どこの誰なのか、ということがその人を知る最も重要な看板になっているのですね。確かによく言われているような気がします。

〇〇生としての自覚を持って行動しましょう!
〇〇に傷をつけないよう、あなたの行動が全体の印象を決めてしまいます!

 確かにその通りではあります。間違いではないのでしょう。
 でも、これは他人から言われることではなくて(いえ、この場合は「他人」とは言わないのでしょうね。おそらくは帰属集団のなかでは「上位」の人の発言なのでしょうから。)、自律心から発せられることなのではと思えます。
 (その自分を律する心が足りないのだよ)と聞こえてきそうですけれども、自律心が足りないからということよりも、なぜそう見えるのか、もし本当に自律心が育っていないのならなぜなのか、ということのほうこそ、もっと掘り下げた声が欲しいなと感じます。けれども多くの所属先で、よりも所属集団を尊重する思想が、こうして着々と植え付けられている現われなのかもしれません。

余分な評価はどこから植え付けられたか

 学校という帰属集団から外れている不登校
 勤め人という帰属集団から外れている無職
 健康という帰属集団から外れている病気
 性という帰属集団から外れている性別

 どれこれも、現在進行形で常にそれを意識せざるを得ないようです。そして余分な装飾がつくのです。帰属集団から外れていることへの罪悪感です。なにか自分自身が欠けているのではないかという焦りが、あたかも自然の感情のように湧きおこるのですね。でも、それって本当に自然なことでしょうか。そう感じるように、私たちは学習してきたのかも。だって、そこに罪悪感を持つことで、より一層、集団に帰属しようとする意識が働くのですから。本人も、周囲の人間からも。同じ方向の意識がそこに存在することで互いにけん制するのです。

学校に登校していないだけ
収入が無いだけ
身体の状態に気をつける必要があるだけ
自分自身であるだけ

 それは家族構成員という帰属集団にもあてはめられているように思います。妻・夫・子などの属性といってもよさそう。多くの人が日常の中おいて男の子の母、女の子の母、思春期の息子を持つ父等々、さまざまな属性ごとに悩み事が重なるため、それが帰属意識をより一層強め、仲間づくりに余念がありません。しかもそんな横のつながりは、一様にこどもの年齢は重ねていくのですから(親の年齢もですけど)縦のつながりもなかなか変化することがありません。

帰属意識は身分制度

 多くの人が気づいているような気づいていないような帰属集団に属していて、無意識にそこから外れないように気を張っています。仲間外れにならないように、です。仲間外れというのは、まさしく帰属集団から外れることをいうのですね。
 けれども帰属集団というのは、先も言ったように、その場だけの一時的なつながりもあるのです。むしろ短期的な同じ目的を持った一時的な集団形成のほうこそ健全であるように思います。人は常に「同じ状態」なわけはなく、成長という変容を見せるものですから。そこでは仲間外れとはいいません。その一時的な同じ目的が果たされたあるいは必要なくなった時点で解消する集団ですから「じゃあ、またね!」でいいわけです。

 どこの誰かを知らなくても特に支障がないというのは、つまり身分を問わないことに通じているような気がします。そんなつながりを持ったことは、今までにどれくらいあったでしょうか。経験則から言えば、そんなつながりを持つきっかけは、現状を打破したい気持ちがあるとき。そして、そのために未知の世界へ飛び込んでみようと行動したときです。
 逆に言えば現状に満足していれば、そんな気持ちは持たないのでしょう。未知の世界に飛び込もうと、垣根を超えた人の集まりに参加することはハードルは高いと感じられています。なぜなら「自分はそんな種類の人間ではない」と身分にとらわれてしまうからです。その身分は「なんとなく」自分の態度や周囲の視線から決められてしまっています。


いい感じに期待を裏切るのがおもしろい

 期待されていることをひしひしと感じて息苦しい心地というものは、誰しもあることでしょうか。時々、そんなプレッシャーを感じない人がいます。感じたとしても問題にしない人がいます。そういう方々はとても愉しそうにしています。

 成長することは、それまでのカタチから変容することなのだと思っています。いもむしからさなぎへ、さなぎから蝶へと変わるその瞬間を私は直接見たことがないものですから、聞いた話、想像でしかないのですが、絵本で見るようなそれは、「まさかそんな!」と想像しない次の姿を現すという展開で、見事に期待を裏切ってくれます。多くの物語でも読者の予想を反した展開はドキドキわくわくします。私はとても好きです。悪者の意外な優しい一面というのもドキっとくるものです。往々にして、そんな悪者には完全な嫌悪を抱き続けることはできず、一抹のさみしさのような、哀愁を覚えます。悪(ワル)に惹かれるポイントって、だいたいそんな感じじゃないでしょうか。それとも、これは女性的な心理なのかしら。男の子的な心理だと、ここは「憧れの存在は、決して他人にやさしさ(=弱さ)を見せないで!」となるのかもしれませんが、〔やさしさ=弱さ〕という概念もやはりどこかで学習したものなのですよね。

 短絡的な、簡単な、安直な、単純な表現は非常にわかりやすいものです。ですから、特に伝えたいことがあるときには、そのような表現が使われることがあります。伝えたいその1点だけが、その場では重要なことだからです。でも実際は、物事はもっと複雑で、けれん味があり、機微(きび)があります。それを理解していくには、やはり段階というものが必要です。きっと体験や経験というものまでも必要です。その段階には、言語化できない感情の表現があります。自分でもどうしてそんなことをしたのかわからないといったようなことです。でも、なぜかそうしたい、そうしなければならないような気さえするかのように、行動してしまうというようなことです。まだ心の葛藤を言葉に置き換えることは難しいけれど、確かに成長という変容の現われだということです。


期待から外れることに安心を覚える

 予想通りに我が子が育つことは安心なことでしょうか。予測できる通りに我が子が動くことは喜ばしいことでしょうか。これが例えば部下であれば、その通りかもしれません。どのように動いてもらわなければならないのかが決まっていますし、そのように見に着けてもらわなければ困る事態になるかもしれないからです。一人前という太鼓判を押すには、一通りには「良し」と思える行動がとれるのだと確信しなければなりません。
 我が子…の場合は、どうでしょうか?

 我が子が予想をはずれた行動をすること、予測できない事態が起こることは実は大歓迎なのです。親としては。
 人としてはがっかりするようなことであっても、です。

 なぜなら、それはその子の成長の証だからです。それまで保護するべき「こども」であった人間が、今から「一人前」の存在として、家族の一員になりつつある段階にまさに出会っている最中です。期待からくる予測をはずれた意外な行動とは、まさにこどもの成長を喜ばしく思う瞬間です。しかし、時にはその喜ばしい表情を見せてはいけないときもあるんですね。それはその行動が道徳的でない場合のみです。それはそれとして、人として対応するべきところですが、一抹のさみしさを覚えながらも、成長したことには「安心したよ」という笑みがこぼれるのはとめないでいいですし、独り言のようにそのメッセージが伝わってほしいと思います。
 だって、もう「こども」じゃないんですから。

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