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#33 沖縄に…ホームスクール的に生活している家庭って、どれくらいいるんだろうね?

『ホームスクールをあたりまえに生きてる』エッセイ No.33
沖縄に…ホームスクール的に生活している家庭って、どれくらいいるんだろうね?

 2015年、こどもたちがそれぞれ15歳,13歳,12歳,8歳当時のつぶやきです。わたしは40歳目前の頃。アンスクーリング暮らし9年目の頃で、県を超えた引っ越しの次の県内の転居後。
 やや都会が近くなり、社会教育施設の利用に期待したもののさほど外出する気持ちは高まらず、孤島状態でした。そんな環境で感じたことの忘備録。   

 2015年当時のつぶやきを編集してお送りします。


2015年のライフステージ

アクセスポイントが欲しい

 沖縄県内各地に自然アドベンチャー的な施設やプログラムは結構ある。ほとんどが学校単位やグループ向けだ。

 そんなときに、「ここに参加したい!集まって、一緒に行こうよ。」と呼びかけることができる場が欲しい。

 夏休みとかじゃない。いつでも、だ。

 夏休みは、教育イベントも目白押し。参加したい、参加できるものもたくさんある。

 でも、平日は・・・? 春にも、秋にも、冬にも、あればいいのに。

 小中学生向けイベントにこどもが個人参加とかはある。
 団体ではOKでも、家族単位ではちょっと…が多い。

 フリースクールのイベント企画に単発で参加という方法もあるかもしれないね。どうかな?あるかな?

 そういう情報をどこで得る?


 ホームスクール家庭同士が、いつでも一緒に活動というわけでもない。
でも、必要な時、「一緒にやらない?」と言えるところ。気の合うご近所さんが集うみたいなところ。

 欲しいんだよな~ぁ。


2005年当時、多子世帯の事情

習い事のハードル


 習い事も似た感じ。個別参加、個別活動なんだよね。

 キョウダイが多いと、習い事もできなかった。

 長女が年少のとき、ダンススクールに見学にいった。小さい弟ふたりも一緒なのを見て、視線が集まった。そこでは、舞台衣装もお母さんたちの手作りだし、舞台出演時の送迎も持ち回りであるしで、「できますか?(お子さんがたくさんいて)」という感じで訊ねられた。

 ピアノ教室の見学にも行ったことがある。

 変な音がひとつだけ響く。どこから?と思ったら、長男が足でエレクトーンの足元の鍵盤をたたいていた。抱っこひものなかの次男も泣きだす。「レッスンはお母さんもご一緒していただきたいのですが、弟さんたちが一緒だとレッスンの妨げになりますので。」

 断られた。

 ひとりひとり得意も不得意も、興味のあるなしも違って当たり前。

でも、ここでは「キョウダイもみんな一緒にできる」ならOKだけど、「みんな違っては、みんなNG」になる。

 子どもの少ない地域だったから、小学校あがるときや学童が終わるころには、遊び相手のいる習い事へと向かわせることが多い。仕事が終わってから迎えに行けばいいこともメリットだったようだ。

 ますます近所に遊び相手がいなくなる。

 学童に入れなかった子や、学童期を終えて習い事に通うようになる前までの(※その頃、学童に入ることができる期間は限られていました。小1から小3までだったかな。)こどもたちは、うちに集まっては、10人くらいにもなった。
 その頃、よく耳にしていた決まり事が「よそのうちにあがらない」ってことだった。でも、よそのうちで遊ぶから、よそのおうちの大人と関わり、学ぶ機会になるのになぁって思ったことをよく覚えている。



9年後、2024年の今

 これが2015年当時、と、2005年を振り返っていたつぶやきです。”交流”する機会をテーマに考えていたのですね。
 父親と別居して4年。それまで近所に遊び友達といくらでも遊べた環境から、一転、近所付き合いも少ない環境を選ぶことになったのでした。
 折も折、我が家の2015年の節目は年齢的にも友人たちと一日中遊ぶライフスタイルから、個別の興味関心に熱中、集中していく時期でもあり、それまでの”動”のステージから、”静”にステージへと切り替わる時期であったように思います。
 
 興味関心事、趣味の分野で話が通じる人との出会いを求め始めていました。

 その機会は、リアルな機会よりもインターネットのなかで見つけるのがどうやらデジタル世代の方法論だったのかもしれません。そして、その方法は【家族で共有する】のはなかなか困難で、個別でプライバシーのある活動にはいってきますから、ひとりひとりの道徳観とか倫理観とか価値観に信頼をおいてはじめて「任せる」気持ちになれます。

 その準備はすでにできていました。そこはリアルであろうがネットのなかであろうが、その向こうに「人がいる」ことをあたりまえの感覚をもって接することができることがわかっていたからでした。
 「血の通った人と対面している」感覚を持っていれば、文字を書き捨てることなく、対話のツールとしての文字を使います。目の前で話をしているのと同じくらいに言葉に気遣います。話すよりも時間をかけることができるメリットもありますね。

 欲を言えば。

 外国語を使いこなせるようになって、世界とつながれるようになったら素敵だな。と期待は大きかったけれど、それは実現してませんね。ま、それもよしです。

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「ホームスクールをあたりまえに生きてる」シリーズを集めたマガジン 2022年5月スタート。 更新中。基本的に全文公開としています。 気に入…

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