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真似っ子して覚えていくよ

今、さっき窓(1階)の向こうで起こったことを書いていいかな。
まずは・・・解説無しで書いてみます。

女の子「よーい、どん!」
若いパパ「え?パパが走るの?」

うわわ
 
女の子「ころんじゃった?」
パパ「うん。ころんじゃったー」
 
ー女の子が走り出した様子

女の子「ころんじゃったー」
パパ「嘘つけぇ」
 
女の子「……うそつけぇ」
パパ「は? 誰が嘘ついたか?」

微笑ましいですか?
まぁ、そうかもしれませんね 
解説(*)を付けますね
想像にすぎませんが、心の中の声を()内に加えて書きます。

女の子「よーい、どん!」
*めっちゃ可愛いつたない声。話初めの1、2歳くらいでしょうか。

パパ「え?パパが走るの?」
*つきあってあげるパパ
 
うわわ
*パパの声

女の子「…ころんじゃった?」
*心配そうにいう女の子のたどたどしい声
(パパ、ころんじゃった…伝えたい気持ちがあるよ。
 なんて言えばいいんだろう。)

パパ「うん。ころんじゃったー」
*こどものセリフを反復するパパ
 
ー女の子がはしゃぎ声が聞こえます。どうやら走り出したようです。
 
女の子「ころんじゃったー」
*うかがうように。ちいさな声。
*行動の反復。この応答を知り、真似るため。

パパ「嘘つけぇ」
*間髪入れずに言うパパ。かわいいなと思っている口調。
☆1

女の子「……うそつけぇ」
*女の子は〔「ころぶ」→「嘘つけ」と声をかける〕を学習した。

パパ「は?誰が嘘ついたか?」
*ちょっとだけイラっとしたパパ。でも本当にちょっとだけ。
(生意気なこと言うなぁ)くらいの口調。
☆2
 

パパよ…、お前は阿呆だな。(これは私の心の声)
なんて、もったいないことをしているんだ。


 今はまだかわいい盛りだから、声を荒立てることもなく「しょうがないなぁ」程度で応答しているんだろうと思われる若いパパの行動は、このままいくと、もっともっと娘が口達者になったときにはどうなるのだろうかと不安に襲われます。(☆2)
 このパパの行動は、おそらく多くの人が想像する通りに激変することでしょう。

こどもを可愛がっているのではなく、弱者だから赦してあげているだけ。



☆1のときには、こどもの〔行動に応じた適切な対応〕が必要だったはずです。
「ころんじゃったね。
 大丈夫?いたいところはない?」
「よしよし(撫でる)」
 
 こどもが言葉にできない気持ちを抱えて、それをどういった言葉や行動にすればいいのかを学びたいと思っているその瞬間に、こういった誰かが転んだ時に示す「思いやり」の態度を、その場で演じてみせることが必要だったはずです。
 子育ちにおいて、必要な学習の機会をつくる手立てだと思うのです。
 まだ長期的な記憶の保持がなく、「即座」「その場」に起こることから関連性を見出す幼い時期には、後になって長々と説教されることはまるで意味が無いし、ましてや模範例を〔教育され、覚えて、それを実践する〕繰り返しで身につけられることは単なる「ルールを覚える」だけにとどまります。

 躾(しつけ)というなら、こういうことだと思っています。「教える」というより、「あたりまえ」の行動を見せる姿勢です。それは文化的な行動様式の伝達で、躾は特にこの家庭内の文化継承をいうものといえるでしょう。
 
 この若いパパは、娘の「ころんだ演技(真似)」の意図が掴めなかったのでしょう。同じように「うそつけぇ」という娘の反復が、自分の行動を真似した学習行動だということにも気づいていなかったのでしょう。貴重な学びの一瞬を取り逃がしたなと思うと、とても残念に感じました。なんて、もったいないのでしょうか。
 
 「うそつけぇ」の言葉が、おそらくはこの場面に適切ではないことを女の子は直観しています。
 パパのセリフより、かなり間を置いた「うそつけぇ」だったからです。実はそのセリフは私にまでほぼ聴こえないくらい小さい声だったのです。パパが返事をしたセリフから、女の子がなんといったのかが想像できたのでした。
 (違うような気がするけど)と感じながらも、実践してみたこの幼子の学習意欲には感動するばかりですが、その後の、軽い口調ながらも叱られてしまったことに対する混乱も想像にたやすく、哀しく残念な気持ちを覚えました。

 パパが、もしも(あれ?もしかして、さっきの口真似?)とすぐに気づいていたなら、(しまった)とわかったかもしれないのに。とるべき行動は模範的な仕草をするモデルであることだったのだ、と。 


 
 でもたぶんきっとこれが「普通」のやりとりなんだろうと分かっています。そのうち保育園とかで「思いやりのある態度」を覚えて、家でそれを実践して、褒められて、親は「成長したなぁ」と喜ぶのでしょう。どこか別の場所で成長してくれてるわけです。

 けど、もしも。

 保育園でその学習が塗り替えられる機会を持たないまま、重要なシーンで「うそつけぇ」と言ってしまったら、彼女の評価は、彼女だけの責任に負わされるのです。その評価は、今度は親に返ってきて、親のしつけや教育などとされるのですが、それがそもそも親の態度によって引き起こされた結果だとは誰も気づかないことでしょう。
 「おもいやりのない子」として、親の心配の種になってしまうのです。


 
 
 家庭教育
 それは、子育ちに必要な知識を学ぶ機会を親に提供することです。
 社会教育のひとつです。でもこの機会は自主的なもので、ひとりひとりの意思に委ねられます。しかし、その意思が生まれるところは、家庭の生育環境が大きく影響するものと思われます。
 どこで、鎖を断ち切るようなことが起こるのでしょうか。

 我が家で家庭保育やホームスクールを選んだ理由は、この一瞬の対応を逃したくなかったことが理由のひとつとして大きいものです。多数の園児や生徒にあっては、「即座」に対応することは難しそうですし、言動の関連性を把握することも追うことも困難だろうと思われました。
 すべてのこどもにこういったことが必要だとは言い切れません。集団のなか、家庭の外でこそ、適切な学習の機会を得ることができる境遇にあるこどももいることはすでにわかっていることですし、それが社会的養護の理念でもあることでしょう。親や家庭だけでは足りないところを、手助けとして支援する場が幼児期・幼少期に整えられているといえます。おおまかにいって0歳から9歳ころまでは、になります。

 日本の教育制度では就学年齢は7歳になる学年度と決まっていますが、その制度も社会に応える歴史のなかで少しずつそうなってきたというものです。「いつでも」入学できる時代もありましたし、「同年齢」ではなく、理解度に応じて、同じ教室に、異年齢集団であったこともあったようです。管理時代に進むにつれ、管理しやすく、監督しやすい環境に順応していったのでしょう。


 こどもの学習の機会を保障するために

 そして、できることなら、その第一の存在が親であることは望ましいことなのでしょうが、絶対であるとは言えないこともわかってきているはずです。

 いずれにせよ、親が親になっていく成長の機会も同時に確保し、保障されてほしいと願っています。

 

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