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”ホームスクーリングを伝える”とき~その根拠~

 ホームスクーリング・センター木蔭
 まなびあい>オルタナティブ教育のはじめかた「学校対応の心得八つ」

 我が家はアンスクーリング暮らしで過ごしてきました。
 長女は9歳から、長男は7歳から、それぞれ小学校に登校するのをやめました。次男は4歳から登園をやめ、小学校は3日で「行かない」と本人が決めました。末っ子は生まれた時からキョウダイたちがすでに家で過ごすことがあたりまえな環境だったため、このうえなくよい環境でしたから、当然のようにアンスクーリング暮らしで過ごしてきました。

 こども4人。
 ホームスクール(ホームスクーリング・アンスクーリング)の実践は家庭方針です。どこからも許可を得る必要もなければ、評価を受けることも必須ではありません。ただ、一条校に在籍している児童生徒ではありますからおのずと在籍校とのやりとりは生じます。
 校長先生、担任の先生、ひとりひとりが教育観、人生観、価値観をお持ちです。わたしもまたホームスクールという教育観を持っています。それぞれの違いを認め、受け容れる態度でいられる関係性はとても心地良いものでした。
 一方で、心配や不安の種はとりのぞく配慮は必要でした。それを放っておくと不必要な支援の提案ばかりか、なぜそれを容認しないのかとさらに余計な不安につながったり、こちらとしては無用な介入が起こる恐れがあったからです。最悪の事態は可能な限り避けるために、経験から生まれたのが『学校対応の心得八つ』でした。

 

 今回は別の側面から、『心得』のお話をします。
 


”ホームスクーリングを説明する”とき言わないでいること

 苦々しい思い出にその理由はあります。
 
 「ホームスクールについて説明しなければならない」と感じるのはどういうときでしょうか。

・ホームスクールを選ぶことを受け容れてほしい
・ホームスクールで過ごしていることを否定しないでほしい

 そんな気持ちのときではないかな。そしてその相手は、自分にとって大切に思っている存在で、同じ気持ちでいてほしいと願うのです。あるいは、尊重しているので自分のことを拒否されたくないと思っている存在です。なにより「わたしたちのことを理解してくれるはずだ」と期待していたい対象なのです。
 そうです。期待していたいので、その期待を裏切られたくないために、懸命に説明して、理解を得ようとするのです。

 けれども。
 いろんな事情や理由が相手のほうのもあります。どうしても「理解したくない」心情があり、それを変えることは決してできないと強く思っている状態にあります。その理由は「あなたのため、あなたたちのため」だ、と言います。

 その頃、わたしはまだホームスクールを説明し、説得するのに十分は言葉を持っていませんでした。相手の心を動かすような根拠のある言葉を持ってくることができませんでした。
 言葉がみつからないでいるうちにも、目の前にいる相手の気持ちをどうにか動かさなければならない、と焦った時、わたしは藁にもすがる想いで、”よくあるホームスクールを説明するフレーズ”を思い出しました。反射的にそれは口をついて出たのでした。

 「ホームスクールはアメリカでは多くの人たちが実践していて…」。

 そのセリフを最後まで言い切れたのかは覚えていませんが、どのような言葉が返ってきたのかは鮮明に覚えています。「だったらアメリカへ行けよ。ここは日本だ。通じるわけないだろう!」。ショックでした。

わたしが伝えたかったことは何であったのか。

 わたしたちがホームスクールを始めようとしたとき、「アメリカでは多くの人が実践している」というフレーズは安心感を得るものでした。なぜならそれは、多くの実践者がいて、すでに確立されている方法で、母親のわたしひとりが考える身勝手な妄想や妄信による暴走でもなんでもないのだ、と確信できる根拠であり、自信をつけてくれるものだったからです。国は違えど、子を育てる環境としてそれらは有効な手段であるのだと、共通の理想があるのだ、と理解できたからです。

 でも、今ならわかるのです。
 ホームスクールを実践することを許可することは到底できない、と考えている人たちにとって、そのフレーズはなんの根拠もない、理由にならない、説得力を持たない、妄信者が使うフレーズだ、と認識します。そのように認識する理由は簡単なことです。理解したいとは考えないし、それは”こちら”の役割ではなく、理解するべきなのは、正しい”こちら側”の人間ほうではなく、正しいはずの自分たちのような考えを変えようとする”あちら側”の人間のほうだと信じているからです。
 ”あちら側”と”こちら側”の分断された関係性から逃れられないままでいると、”わたしたち”の話にならないのですね。

 

そして、わたしは反省して、心に決めました。

 【なんの根拠もない】と感じる理由を持つという点においては、一理あると思います。それはその人の【経験から語っていない】という部分です。わたしは自身の経験からアメリカのホームスクール実践についてコメントしたわけではなかったというのは確かな事実です。
 もしもこれが実際にアメリカに住んだことのある人のひとつの経験話として聞く内容であるなら、少しは「そういうこともあるのでしょう」と受け入れる部分もあるかもしれません。そして「それをわたしたちにどうあてはめられるというのだろうか」とうまくすれば思考を進めてくれるかもしれません。
 もしもこれが目上の尊敬する人が話すことであれば、理解できないことであっても(私より高い目線を持つ人が言うことだ)という心情が働いて、「なるほど」というセリフくらいは口から出てくるかもしれません。そして頭ごなしに否定するということも、まぁ無いのでしょう。

 けれど、わたしやわたしが知る限りでは、多くの場合、我が子のホームスクール実践を決意するのは母親たちであり、父親に説明し、納得してもらう役目を負います。最終的な決定権と権限は父親が持っており、許可と承認を担うのは父親です。そこがクリアできなければ、非協力的な人間が家族のひとりだという事実がありつづけるだけです。
 父親だけではありません。学校や教育機関の権威を持つ年上の男性たちがほとんど相手となります。
 ”本来、内助の功であるべきの女性がなにを言うんだ”に近いプレッシャーを女性たちは一身に引き受けるのでした。特に専業主婦ですと「世間知らず」と思われる節がありました。小学生くらいのこどものいる若い母親ではなおさらそのように取られることもままあったのでしょう。
 不登校の件で学校面談に出向くとき、父親がいるのといないのとでは大違いだと感じるという話は今でも耳にします。

否定する根拠になる可能性があるなら、あえて使わないことにします。

 「経験から語る」文化と「共感から語る」文化があります。どちらの文化(あるいは習慣や癖、と置き換えてもよい)になじんでいるかで説得力を感じるか否かも違ってくるように思います。
 
 「アメリカでは多くの人が実践している」というこのフレーズは、ホームスクーリングに肯定的な人にとっては後押ししてくれるのに十分な根拠を持つと感じますが、そうでない人にとっては肯定する理由も受容する動機にもならないフレーズになる場合があるというのは事実です。その事実があるのであれば、このフレーズを避ければ、生じる断絶を避けることも可能だ、というも明らかな事実です。思わぬ方向に向かう可能性をあらかじめ潰しておくというリクスマネジメントです。
 合意形成に向かって、もっとよい方法があると気づいたのでした。

 なにより、自分に語る言葉を持たないとき、【藁にもすがる思いで記憶に残っているフレーズを使って火に油を注ぐ結果になる】ことは避けることができる事態です。ならば記憶に残さないでいよう。そう決めました。
 『ホームスクーリング・センター木蔭』では、このフレーズが、「ホームスクールを実践する」ことの安心につながる根拠になるとは考えません。むしろ揚げ足をとられる可能性の方が高いと考えます。これから肯定的に実践を検討する人にとっては後押しになるフレーズですが、説得する場面で使用するには効果的ではなく、むしろ反撃をくらう要素を持つと考えます。

 

理解されなくても大丈夫。護るために伝えることを考えよう。

 経験に基づいた話、具体的な話、身近な話で伝えることで、”理解していなくても大丈夫だと思える、受け容れることができる”関係を目指しています。

 ホームスクールは家庭それぞれの哲学から実践が生まれます。つまり家庭の数だけ、考えも価値観も、優先していることも違い、それゆえに方法も手段も違っています。家庭の数だけホームスクールの在りかたが生まれます。
 であれば、普遍性や再現性を数値で語るよりも、「わたしたち」を語ってゆけばよいのだ、と考えます。

 あるとき、友人にこう言われたことがあります。
 「でも、とてもたのしそうに過ごしているじゃないの」。
 その姿が真実を語っていると、彼女は暗にわたしに教えてくれました。それだけでよいのです。こどもたちと過ごす時間は、いろんなことが充実していたのでしょう。それがそのまま誰の目にも映っていたのだとすれば、それで充分なのでした。

伝えることとこどもを護るためにすることのバランスを取ります。

 周囲にホームスクーリングで過ごしている内容を伝えるときには「こどもたち」のプライバシーであることも忘れてはいけない重要な事実です。こどもたちのプライバシーを、親であるという立場だけで、こどもに許可なく、学校やそのほかの場所で公開してよい理由にはなりません。ましてやホームスクールの成功や正当性を示すために利用するものでもありません。わたしはそう考えました。たいていは、どのこどもの親もそうであるように、愛らしいこども自慢の範囲を超えないものです。それを超えるのであれば慎重になる必要はあるものと思っています。
 それを考えたのは、特に、学校への報告する機会を持つときでした。なにげに先生方はこどもたちの学習なり活動なりの様子や成果を形で報告してほしい気持ちがあります。それは、わたしたちを想う励ましであると同時に必要な職務でもあるとわたしは思っています。
 大切なことは、その動機です。なぜそれを伝えるのか。どのようなかたちで伝えることがベストなのか。それをいったん考える手順は必要なことだと思います。

 それがホームスクールの実践だからです。
 ホームスクールは、だれにもその評価を受け、合否を判断される理由がありません。主体は「わたしたち」なのですから。


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