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《自分》運転中

 断捨離中なのです。
 主にインターネット上のことです。ブログ閉鎖や使っていないサイト登録の削除などです。見えないものも背負ってしまうタチなので、予想もしていないほどの効果があったようで、体力回復機能が起動しはじめました。つまりそれまで麻痺させていたものが起動してしまったものですから、あちらこちら痛々しくて大変なことになっています…。(あ、そこもかしこもボロボロだったのね、本当は。)という具合で、首は回らないわ、背中は痛いわ、足はツルわ…と突然の身体工事期間のスタートに思わず笑ってしまいます。

 「今、自分ってどこらへんなんだろ?」
 ふとそんなことを思い立ち、心的状況と身体状況のグラフを鉛筆で書いてみました。画像、みづらいですよね。いいんです。ぼんやりラインが上下してるなぁってとこだけみてくださいまし。
 2012年はこどもたちを引き連れて沖縄県へ越してきた年なんですね。それ以前は心身ともに死んでましたので…。そこからは基本的に回復ラインです。2015年に限界集落の僻地から街へと引っ越しています。このときは就職もしまして、(さぁ、やるぞー!)と生徒募集を盛り上げてきたのですが、まさかの10カ月余りで教室閉鎖が本社で決定され、やむなく離職することに。同時並行で始めた自宅教室もこのたび縮小することになりました。


 こうして眺めてみてわかるのですが、2012年に沖縄に来ることができて、それまで死んでいた心が生き返ってるんですね。それが生命維持できる程度に身体を保っていた感じでした。やがて2016年前後に身体状況が回復するのですが、今度は順番に心が休み始めたようなタイミングです。
 身体状況が頂上まで回復しているように思っていましたけど、これは見せかけともいえます。なぜなら食生活はそれ以前と比べると崩れていたからです。隠れている状況アイテムは食生活と生活リズムです。
 心的状況の回復から、身体状況を引っ張り上げ、ある程度あがったところで両方が近い位置で一緒に低迷していきます。心身のバランスが同調してきたといえます。それ以前は心とカラダがバラバラな感じだったんですね。「気持ちはこうであるのに、実際にはこうしなければならない」という苦しい状況が2012年以前にありましたので、心的状況と身体状況がある程度回復したところで、心身の同調が始まった…と受けとめています。そう考えると〔Now〕の部分で現在、心的状況と身体状況が再び離れていっているのかもと感じたのですが、そうではないかもしれないと思いました。やっぱり連動している心地がします。

 食生活の崩れがあって、実際には体内環境は荒れています。気持ちが沈んでいてあまり動けなかったので、2018年は食事をこどもたちで作る機会が増えていました。すると簡単にできるものとなると揚げ物が増えるんですね。衣がついている冷凍状態のものを購入しておきますから、揚げるだけの手間いらずの食材なわけです。食材は週に1度の宅配で、「お母さんが動けない時にはこれを使ってちょうだい」というわけで、こどもたちがそれぞれ調理できるものも選んで用意しておきます。原材料であったり、加工品であったりです。揚げ物は加工品の状態で、というわけです。
 揚げ物が増えると、刺激物と甘いものが欲しくなってきます。するとおやつをつくるという気力体力が無いものですから、近くのコンビニで買って済ませることになります。それがまた体力気力を落としていきます。だんだんと心身状況を把握できなくなっていきます。こういった悪循環を断ち切るには、ショック療法がいちばんなのかもしれませんね。私の場合は経済的状況ですね。なんということでしょう。ごまかしごまかし使ってきたメガネは買い替えなければいけないほどになってきましたし、電化製品などの買い替え時期も重なりました。「おやつ(加工品)を買うほどの贅沢するほどの余裕がなくなってきたぞー!」というそれ以上でもそれ以下でもないまんまその事実がつきつけられてしまいました。やらねばなりません。

 「おやつ代」節約は、同時に【脱☆あまい市販のお菓子・計画】と同義です。同じようにみえても、手作りすると、なにが減るかというとかなりの量の食品添加物ですね。やってみるとわかりますけど、これがなかなかあなどれませんで、心身に影響大なのです。気持ち的にも同様なので「思い込みでしょ」と言われれば、「そうですね」と返しますが、自分にとっての心地よさはやはり心身に影響大であることは事実であろうと思います。タバコやお酒が心の休憩になる人もいれば、その匂いでストレス大どころか心身に不調をきたす人もいるのです。物がどういった質のものかどうかより、当人にどのような影響をあらゆる面において与えているかをみるほうが断然、重要です。芳香療法(アロマセラピー)をまなんでいると、記憶(体験)と脳と身体の密接なつながりに感嘆します。私にとって「おやつを作っている自分」はとても好きですし、作ったおやつを「おいしい!」と言って食べてくれるこどもたちや「今度はこれを作って!」「あれをまた食べたいな!」と言ってもらえることでとても幸せな気分になります。そうしているうちに舌の感覚もよみがえったようで、これはいいのか悪いのかなんとも言えませんけれども化学調味料に敏感になって舌がしびれるという感覚がよみがえりました。自分の身体が「食べていいもの・だめなもの」センサーを働かせるようになってきたのだと自覚します。すると、今度は食事ですね。連動して主食の内容も好みが変わってきます。今はまだこの途中です。甘いものはあまりよくないとされていますが、必要な時には必要なのだと思っています。ですから「よくない」と頭で理解しているからといって急激にやめようとしても、かえって気持ちにも無理が生じると思うんですね。だから徐々に、だんだんと…ごまかしていくくらいの程度で軽くしていきます。そのためにはレパートリーも増やさないとってなりますけど、ここで楽しめるかどうかの調節って大切ですよね。たのしめないと、続けられません。いったりきたりですが、長い目で見て、自分の理想に近づいていければいいんじゃないかと思います。なにも「理想になる」が実現してなくてもいいと思うんですね。近づいているという事実と、近づいていこう!という気持ちを持てるということのほうがずっと重要かと。

  10年単位で総合リズムを書き出してみました。これもどうぞぼんやり眺めてください。なんとなく、あぁ波があるんだな、と。私の場合はどれも「就職」がキーワードになっていますが、これは実は働くことが生き甲斐とかいう話ではなく、「家から出る」「自分時間がある」「自分の判断で即行動できる」という環境と状況が持てたんですね。これはもう乳幼児が家族にいるかたは共感いただけると思いますが、トイレすらいけない毎日じゃないですか。少し大きくなってもまだまだ自分の手を止めて、こどもの気持ちに寄り添って…という期間は相当長いです。それゆえのインターバル、心のリフレッシュ、心身向上の機会であったというわけです。「働く」が直接的な自己肯定の機会というわけでは全然無いんです。

 先の短冊(リズムのグラフ)を書いていた時も思いましたが、《モチベーション》というのはほんの一時期のスパイスのようなものですね。偽(にせ)の心的状況あるいは偽の身体状況を創り出すものです。【偽の心的状況に置くことで、身体を引き上げる。偽の身体状況をそえることで、心的状況を引き上げる】ものです。でも、みせかけなので長くはもちません。起爆剤のようなものですし、薬のような対症療法のようなものですね。短冊を書いてみて改めてそう思いました。たまには活用できるものかもしれませんけれども、常用するたぐいのものではないなぁとなんだか腑に落ちました。
 総合グラフで隠れているアイテムは、ひとつは経済状況ですね。ひとことでいえば、経済状況は「こども」時分を頂上としたら下降の一途です。いまもなお下降中です。経済状況と心身状況に相関関係はあるのかとみると、私の場合はあまり無さそうです。もうひとつ隠れているものは支配関係です。「支配に置かれている二も関わらずそれに気づいていない」状況から、「支配に気づいて改善したいと願っている」状況から、「支配から逃れることをあきらめて、見ないフリをする」のあたりでは心身ともにどんどん死んでいきました。(あぁ、こうして人って死んでいけるんだな)って今でも本気で思っています。奇跡の状況展開で「自分を運転する」生き方にシフトチェンジします。経済状況は下降の一途をたどっているのに、総合で上下の波があるのは、隠れたアイテムがそれぞれに作用するからなんですね。

 人生、どうにか調節ついています。

 大切なのは、やはり「考え続けていること」なのではないかと思っています。自分自身の状況を味わうことで、自分の心身を管理し、運転し…まるでなにか器を扱っているかのような言い回しではありますが、ある意味その通りなのではないかと思います。肉体という器を死ぬその時まで上手に扱っていけると、意思と連動していきやすいのではないかと考えています。心と身体がバラバラであるということは「どうにもならない」状況を生みやすい。気持ちはあるのに動けないとか、こなしているけれども頭が働かないとかですね。なりがちです。すると変調もきたしやすいですよね。

 【体育】という授業があります。それはスポーツ選手を育てるのが目的ではありませんし、健康維持をまなぶというものであるのが本来のようです。「健康を維持する」という考えにはまたひとつモノ申したい点がありますけれども、常に健康であることというのは無理な話です。まったく病気をしない・ケガもしないというのは、事故にあわない・気持ちが乱れない・感情がゆさぶられない・変化しないというのと同じです。人間的ではありません。バイオリズムといわれるように、上昇も下降もつきものです。

 過ぎたるは及ばざるがごとし

 万人にとっての良い状態というものが固定されて約束されているわけではありませんから、人それぞれの良好な状態があります。成果をあげたねと言われたことでも、誰かにとっては120%の力の限りを尽くした結果かもしれませんし、誰かは80%の力の出し加減でこなしてしまえる内容かもしれません。現代社会は成果によって、またその労働の時間によって報酬が払われています。そのことから「無理してでもがんばれ」「がんばることに意味がある」などと根性論と感情論にいきがちです。
 わたしなどは無理をしたら、それを元の状態までに回復をはかるまで、無理をした期間の2倍の時間は必ずかかります。その間、文字通り動けないわけですから、無理をして100%の成果を出そうとするより、80%あるいは60%の力の加減で無理せず、自分のバイオリズムを自分で管理して調節できる程度の毎日がよほどなによりも大切なんです。
 健康的な生活をいうならば、無理をせざるを得ない状況にある人がいるということがおかしいんですよね。健康維持という言葉はともすると「健康であり続けることが普通」というものにすりかえられてしまいます。そんなわけはありません。健康な状態であれ、いわゆる不健康な状況におかれているのであれ、健康的であろうとする心身を持っていることが、人間らしい暮らしだと思えます。健康的で過ごそうというときにその方法は、人それぞれ自由があって当然です。人から「それはおかしい。それは間違っている」とやかくいわれる筋合いは無いはずです。ましてや自分のことをなにも知らない人から言われるのはまったく気にしなくていいですね。知らない人なんですから、今までも今もおそらくはこれからも自分の人生になにも影響しない人の言うことです。すぐに忘れます。ただ平穏な生活にひどい影響を及ぼすほどに「間違っているので正しなさい!」とされるのはごめんです。親切を越えて人権侵害ですから。親切という言葉のという文字は、「親切」の意味からするとなんだかちぐはぐな印象もありますが、大変身近に在るという意味があるんですね。親しく、身近で、自分のことを多方面からものすごくよく理解している人だからこそ可能なことなのかもしれません。そんな親切には「本当に自分のことを想って伝えてくれているのだ」と真摯に受け止めて、向き合おうとする誠意で応えようとするものです。そうではない遠くの島から顔も見えない気配もうかがえない距離感でなにか言われても…となりますね。

 

 《自分》運転してますか。

 

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