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大丈夫よ~安心という治療薬~

 今年は壁にかかっていないのですが、新暦以外のカレンダーを見ることもわりと好きです。旧暦や月ごよみですね。旧暦カレンダーは、農作業と連動しているそうで季節の変わりが味わえます。月ごよみでは、月の満ち欠けと体調の変動を関連づけることで生態リズムを意識するきっかけになっておもしろいものです。

 さて新暦カレンダーでは、7日間で1週間「日月火水木金土」という決まりが周知されています。そのうち《日曜日が休日》という社会的な了解が浸透しています。

安息日がお休みの日!の事実

 興味深い判例がありました。宗教上の義務として日曜日は教会学校に行かなければならないため、日曜日授業参観に出席できかったところ、欠席扱いになったので、信教の自由の侵害として訴えたところ認められなかったということです。そこで安息日について記載がありました。

日曜日授業参観事件判決 
 安息日問題。日曜日以外を安息日とする宗教・宗派は少なからず存在している。イスラム教は金曜日だし、ユダヤ教などは土曜日を安息日としている。そうした中、欧米諸国はキリスト教に配慮して日曜日を休日としてきたのであり、日本もその習慣を受け継いでいる。その結果、もともとキリスト教徒は安息日に普通は学校に行かなくてもいいという、他の宗教と違って優遇された立場にある。(略)日本では、日曜日以外を安息日とする宗教・宗派の人々が安息日に休めば当然のように欠席扱いされる。そうした中、日常的に優遇されたキリスト教徒が安息日規定を云々しても、学校として対応すべき必然性は強く感じられないのが実際のところだろう。
ー『良心の自由と子どもたち』西原博史著・岩波新書

 私たちにとって「日曜日は休日」という慣習は特に宗教上の理由を持ちませんし、安息日とは聞きなれない単語です。しかし世界的な常識にはこんな事情があったのかと思うと、社会規範ってなんだろう?とふと疑問に感じました。

社会規範=カレンダー

 7日間の中に平日と休日が組み立てられて1週間となっているんですよね。休日が10日に一度でもなく、3日に一度でもなく、7日に一度(基本として)というリズムが出来上がっているわけですね。
 そう考えるとどうしてなのかなぁ?と思いませんか。なんだか不思議な気がしませんか。

 つまりそれって人間の生物学的な理由でもなく、生理的な健康上に最適な働らきかたというわけでもなく、社会規範として特定のモデルを採用したというだけのことなのかなと。

 日本の歴史上には「安息日」に近い思想はあったのでしょうか。繁忙期と閑散期でお休みが変動する暮らしのほうがしっくりと合っているような気がしますね。職人さんたちはおのおの自分の調子が良いときと悪い時とつきあいながら、最高のパフォーマンスでものづくりにあたっていたのではないかしら…などと想像します。定期的な休日あるいは休憩によって調子が乱されるということもあります。「ここまで終えたら…」とか「キリの良いところまで…!」という感覚が無いでしょうか。
 家にいますと、家事などは「終わり」が無いので、区切りも休憩もうっかりすると無かったりするので、よほど自己管理ができていないと、休憩やお休みを自分にあげることは難しいです。

不規則なのはダメかしら?

 こどもの成長は規則的といえば規則的です。しかしそれは大人が決めたスケジュール通りではなく、季節感もあれば、成長に伴い成長発達に応じた規則性です。朝の5時に起きるというより、日の出とともに目覚め、日の入りとともに活動がおさまり、だんだんと入眠の準備をしていき、やがて睡眠という起きて(覚醒して)いる時とは別の脳の活動時間が始まるという具合です。
 保育園や幼稚園、小学校の始業時間を軸に考えると、こどもの起床時間も睡眠時間も不規則なように見えるかもしれません。でも実は、個々の体内リズムを刻んだ結果なのだろうと実感を伴って感じています。
 秋の夜長を感じる人も多いでしょう。季節が変わると、なんとなく時間の流れも違っているように感じたりしないでしょうか。ちなみに我が家がホームスクールを継続している理由に、こどもの成長発達に応じた生活リズムを尊重できると考えたのもひとつにあります。コントロールされたリズムではなく、自分でコントロールしていく道筋ができると考えたためです。それは自分の体調を自分で知る感性を育むことにもつながっていたと思います。

 大人の決めた一日のスケジュールに合わせることは、個々の体内リズムから見れば、不規則な気がします。とはいえ、社会に出れば規則的な生活リズムに合わせることは必要不可欠なことです。多少の体調不良があっても、どうにか時間に間に合わせることも社会のマナーとして必要になってくることでしょう。そうであるならば、大人になるまでに多少の無理のきく体力をつけたり、自分の体調に気づく感性を身につけたり、自分の調子(リズム)に合わせて調整する力やなにをいつどうすればよいかを見極める判断力を備えることがなにより生きる力となるのではないかと考えました。それが我が家の「健康管理・自己管理」に関する学習内容です。
 可能な限り怪我をしないためにはなにが必要であるのかとか、安定した心身の状態で取り組むためにはどうするかなどの考え方は、知恵として自然と「なにをするか」の選択を決定する羅針盤のようなものを持って育んでいる最中なのではと思っています。

 大人が考えた「こどもに必要なこと」「こどものうちに身につけておくべきこと」その「身につける方法(学習方法と内容)」とは、考えた時点で持っている成功体験に基づくものから導き出されたものなのでしょう。成功体験は、成功してしまっているので、それが間違いとなった例を成功した本人が体験することは不可能です。成功している時点で、成功体験となるのですから、その発達成長時にたまたま適した方法であったというだけかもしれません。誰のどの発達段階においても適用できるとは決定づけできません。であれば、とても規則的なことだとはいえません。

 若い脳であれば、瞬時の判断力が行動に結びつきます。反射神経も高く、対応を即座に変更することも容易でしょう。経験豊かな熟練者であれば熟考という手段や計画をするという手段が最適解を導き出すかもしれません。どちらもその時点の能力に応じた勘が働くことが最良のパフォーマンスが機能する基本的な条件だと考えられます。個々で発揮する能力は、生来の特性だけにとどまらず、年齢や環境においても違ってくるのでしょう。
 「個に適した学習」は、決められた知識や技能の習得方法の個別最適化となりますが、「個に応じた学習」は個人の能力を発揮する個別の環境設定となることでしょう。いずれにせよ、学習意欲は、本人にゆだねられる内面の心の動きが決定することにはなるでしょう。

「いつも」の状態から離れる不安

 病気になると「いつもの調子」からは外れます。いつもの調子と違う状況は「老いる」ときにもあらわれます。それまでできなかったことができないと自覚してしまうと、「怖い」という感情がつきまといがちです。
 「いつもの調子」は、「普通」や「あたりまえ」という表現にもなります。つまりいつもの調子でないということは、普通の状態ではないと感じてしまうということです。

 季節が廻り、気温や空気感すら変化があるというのに日常の社会においては「いつものこと」が普通だと考えられています。確かに四季に合わせて服装は変わるし、季節のイベントもありますが、朝起きる時間や始業・就業時間は基本的には変化がありませんから、一日のリズムとしては季節問わず変化があまり見られません。そんな暮らしのなかでは、いつもと違うということはどれほど不安な材料になることでしょう。

 病気というのは痛みを伴いますが、痛みのなかには物理的な痛み以外にも不安からくる心情的な痛みのほうが上回るのではないでしょうか。痛みは処置をすれば治まることがわかっているものならば、我慢もききます。いつかは終わるという見通しがつくからです。しかし、終わりがみえない不安という空気から感染する心の痛みは、自分で舵取りをする部分が大きいのではと思います。
 病気によって「いつもの調子ではない」ことからくる不安の大部分は、「普通」とはずれている、離れている、といったことに自覚的であるゆえに生じるものではないでしょうか。

 それが単に「今は調子をゆるめるとき・休息が必要な時」と思えれば、リズムの変化であるにすぎないと受け止めることもできそうですが、いつもの調子と違うことが、「普通」という自分にとって最良のパフォーマンスができる状態を標準値としてしまったらどうなるのでしょうか。「いつもの自分であらねばらならない」と考えたり、不調である自分を受け容れられなかったりします。「こんなはずでは…」と考え、実際には無理を強いてしまったりします。

薬の効果

 薬は毒にもなります。私が学んだことで、薬について「なるほど」と思ったことは、「薬が自分にとって役立ってくれるもの」と思って治療に前向きに使えるうちは有効だけれども、「薬が無ければやっていけない。」と考えて薬を用いることで自信を無くしてしまったりすることは、薬の効果を半減しているのと同じということです。治療の対象となる症状とは別の問題が生じることが考えられるということなのでしょう。
 治療することが「普通に戻ること」と解釈されれば、「普通でなければならない」という想いが強まってしまう事でしょう。「いつも」とは違うことが必要な状態でありながら、「いつも」であらねばならない強迫観念にとらわれつづけているのは、休養や休息とは程遠いような気がします。

 クライアントが積極的に治療内容に納得して向き合うためにインフォームドコンセント(説明と同意)が重視されるようになりました(昔は無かったんですものね。)。セカンド・オピニオンもです。医学療法の科学的な根拠も重視されるのかもしれませんが、なによりそれを納得して取り組めるかどうかは、その後の経過にも影響するという事実を示唆しているといえるのでしょう。
 プラシーボ効果といって、実際には作用を持つ薬ではないのに、思い込みによってなにかしらの結果が生じるということがあります。よく「それはプラシーボ効果ではないか?」と薬等の治療効果に疑いを持つ理由として述べられることがありますが、それはプラシーボ効果というものが実際にあるということについては否定されていないということができます。
 心の安寧、安心感が、心身に状態に影響するということを疑う理由はあまりないといえるのではないでしょうか。

 身近な話では、こどもが熱を出したときには、看病する人(主にお母さんであることが多いでしょう)がとてつもなく不安げな表情をしていたら、お世話されるほうもなんだか余計なことを考えて不安になります。そんなときは「大丈夫よ」と落ち着いた声で応えることが、こどもの心細さをやわらげます。リラックスすれば、それだけ回復にも良い影響が出ると考えてよいと言えます。
 これはあきらかな病気という状況に限りません。

 新しいなにかに挑戦しようとするも、自信が持てないとき。
 「失敗したらどうしよう」と今一歩を踏み出せないとき。
 「がっかりさせてしまったらどうしよう」と心配になるとき。

 それぞれ安心できる対応があります。どれも「こんなときは、こうするべし」などという決まった様式はありませんよね。

関係性と距離感

背中を押してほしい/ひきとめてほしい
「なんでもないよ」とドンと構えていてほしい/心配してほしい
期待していでほしい/期待しているよと励ましてほしい

 同じ状況でも「こうしてほしい」ことは違いますし、正反対の対応を待っていることだってあるのです。相手により、期待する対応が違ってもいます。その発信をキャッチするアンテナは、無いより、有るほうが信用も高まることは事実です。高い信用を置ける相手からの対応であれば、疑うことなく信じることができます。信用ならない人からの言葉は響きません。
 しかし、付け加えておきますが、信用と信頼は同じものではありません。「頼りないけれど、信用はしている」とか、「仕事の対応は信用しているけれども、信頼はしていない」とか、人格の一面だけで、全人格を肯定したり否定したりするものではありません。人間関係の距離でその度合いは違ってくることでしょう。パートナーに期待することと友人に期待すること、親に期待することと同僚に期待することは全く違っているのは道理です。

 一人ひとりの個性を知るには、その「ひとり」と対峙している人にしかわかりえないことでしょう。一人ひとりの背景も、環境も、状況も違っていて、似たような・同じような何かを抱えていても、必要なことは一人ひとりで違っているのだということを忘れてはいけないと思うのです。

 人が生きていく上で生じるさまざまな状況や環境、背景を知ることは、その知識は大いに役立てるものですが、それを十把一絡げに扱うのでは、ただ単にいずれかの枠に当てはめるかを決めるだけで、枠ごとの指示書に従って、誰もができることを基準値に収まった「安全」の範囲内で対処するだけです。
 人が一生のうちで、他人と出会う人数はそれほど多くは無いといいます。ずっと覚えていられるはずも、覚えられているはずもありません。けれども「忘れられない」ことというのは残ります。しかも「忘れられないこと」は本人にとってのそれであって、「忘れるな」とか「忘れろ」と命令できることでもありません。だからこそ、丁寧な出会いはうれしいものになるのでしょう。そう思います。

自分とつきあう自分という人間

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